荒涼たる荒れ野に、ジャンは一人で佇んでいた。
見渡す限り、岩と砂しかない。時折突風が砂を運び、地平線を灰色に煙らせている。
黒く大きな積乱雲が高く聳え立ち、強い風が下層の雲を薙ぎ払っていく。
遠くに紫の稲光が閃いた。嵐の前のようだった。
生き物の姿どころか、草すらも生えているようには見えない。
これが……御神苗の精神?
こんなにも荒れ果てた砂漠が?
ジャンはざくざくと細かい砂のうえを歩き出す。そして気が付く。
(これ……砂じゃねえ)
指先でそれを掬うと、ぱらぱらと砕けてさらに細かくなった。
何かの破片だ。小さく崩れた結晶のような。
(骨……?)
それは風化した骨の、成れの果てが堆積した砂丘だった。風に形を変えられ、風紋を形作っている。
怖ろしいほどに全てが朽ち果てた風景だった。
目を落とすと、自分の手首から頼りなく細い糸が伸びている。どこに続いているのかはわからない。
ジャンはその砂を払い落とすと、砂丘の上を歩き始めた。

どれくらい歩いたのかわからない。太陽もなく、星もない。時間や距離はここでは意味を持たないのだ。
やがて、眼前に大きな木が見えた。すでに枯れ、黒いモニュメントと化している。糸はそこに続いていた。
あそこに奴がいる、とジャンは直感した。

そこは随分前に涸れた、オアシスのようだった。
朽ちた木の上に、人影が見えた。
止まり木で羽を休める黒い不吉な大鴉のように。
襤褸布をマントのように纏っている。
こんなところにわざわざようこそ、とそいつが言った。

「あの魔女の手引きか?」
「そうだ。あいつを返してもらいに来た」
「返す?」
ははは、とそいつは笑った。御神苗と同じ声で、同じ顔をしているのに、酷く癇に障る声だった。
返すっていうのはな、と言い聞かせるように言う。
「それは所有権がお前にあった場合、だろ? 残念ながらあいつは俺のものだ。お前らに返す気はさらさらないね」
「お前はとうに封印されたはずだろう。あいつがお前を否定しているなら、お前にそんな権利はない」
「封印ねえ……。けど死んだわけじゃない。俺もあいつの中で同じ年数を生きてる。たまに入れ替わりながらな」
「やっぱり……お前だったのか」
「ああ、アンタにはたまに見られてたっけ。そう。優がどうしても耐えられない状況に陥ったら、俺の出番ってわけ。尻拭い役ともいうかな」
「そんな状況……」
「幾らもあっただろ? 俺がアンタを見たのは……三回くらいかな。人間の精神ってのは上手く出来てる。見たくないものは見ないようになってるんだ」
「あの時……狙撃されたとき、表に出ていたのはお前だな?」
ジャンが撃たれ、その後で御神苗が狙撃された。一瞬だけ見せた、背筋がぞっとするような笑み。
「そう。だってアンタが必死で叫ぶからさ、面白くて」
「てめえ……」
「あの時も俺が一押ししてやった。『またアイツはお前の盾になろうとしてるぞ』って。妬けるね。お前が関わると、あいつは腑抜けも同然だ。どうやったらああなるんだか教えて欲しいくらいだ」
「黙れ」
「……優を撃たせたのもわざとだよ」
「わざと、だと……!?」
「当たり前だ。俺があんな下らないミスをすると思うか? わざと弾道に垂直に立てば、どこを狙ってくるか位はわかる。まあ……精密な腕が期待できなかったから、半ば博打だったけどな」
「どうして……」
「決まってる。代わりに俺が表に出て行くためだ。それ以外に何がある? もともとアイツの精神力は並じゃなくてね。酷く弱ったときでもなければ俺は出てこられない。アラジンのランプの精じゃねえんだ、いつまでもそんな扱いに耐えられるかよ」
「……俺を病室で襲ったのは何故だ?」
ジャンがそう訊くと、何故そんな簡単な質問をするのか理解に苦しむという顔で、眉を上げた。
「そんなの決まってるだろ。お前が邪魔だからだよ」
御神苗の顔をした別人が、面白そうに笑った。
「俺がこいつを乗っ取れば、もうお前は用済みだからな。先に始末しておこうと思った」
「何だと……?」
「もっと喜べよ。お前が死ぬかもしれないっていう状況が、コイツにとって最高のストレス源なんだよ。だから言ってやった」
「何をだ」
「……お前が先に死ねば、アイツが死ぬところを見なくて済むぞ、って」
艶やかに笑う。
咄嗟に殴りかかろうとしたが、御神苗は瞬間移動のように姿を消し、ジャンの背後に現れた。
ここでは彼が法であり、秩序なのだ。
彼の纏ったマントが大きく風を孕んではためいた。
「そうしたら、それまで鉄壁だった檻が見事にガタガタ崩れた。面白かったぜ、普段ならそんな言葉に耳も貸さねえのにな」
「……」
「俺はアイツの一番弱い部分を知っている。お前は?」
お前がよく言うだろう、「俺がいなきゃお前は何回死んでるかわからねえ」って。
その通りだ。お前は正しい。こいつは弱い個体で、それは罪だ。淘汰されるべきなんだ。
「俺の方が完全だ。何故、お前らは不完全なアイツを求める? 不完全ってのは、弱いってことだろ?」
彼は狂騒的な眼差しでジャンを見る。
「お前らが欲しいのはただ純粋な強さだけなんじゃねえのか? だったら俺のほうがよっぽど向いてる」
だから、こいつは俺が支配する。正当な持ち主は俺だからだ。どんなに否定しようと、こいつの本性はただの人殺しだ。つまり俺のことだよ。普段は人の皮を被っちゃいるが、その本質は変えられない。嫌だと言ってももう遅い。お前もそうだ。表面上の外面とその機動力に、ただ騙されてるだけなんだよ。

見ろ、この世界を。荒れ果てた末期の砂漠だ。草一本生えない不毛の土地。
これが本質だ。御神苗優という人間の、実情だよ。
あのまま、自我が戻りさえしなければ、あいつも苦しまなくて済んだんだ。
もともと消える運命だったのに、しぶとく生き残りやがった。

戦闘装置として生まれたんだ。他にはなにもなかった。だから殺すし、殺して俺は生き延びる。
俺が死んだらあいつも死ぬ。だから生き延びるためならなんだってする。
あいつが苦しむならそれは俺が負うし、その原因は俺が殺すよ。生まれ損ねたもう一人。
俺の分身。
俺がいなければあいつは生き延びてこられなかった。そしてその逆でもあった。
強くて、そして弱い。俺たちは。





Nec possum tecum vivere, nec sine te.





そのラテン語は、甘い囁きのように聞こえた。
聞いたことのある一節だった。
お前と生きていけない、
それでもお前がいないと生きられない。
二律背反の中にこいつは存在している。
彼等は同時に存在できず、鏡の向こう側にしか相手はいない。
けれどどちらかが死んだら二人ともが消滅する。
ずっと、別々のものだと思っていた。お前と、あいつは。決して交わらない、別個の存在だと。
でもそうじゃないのかもしれない。
お前がいなければ御神苗は今、俺の側にいなかったのかもしれない。
お前がずっと、あいつを救ってきたのか?
その闇を、一人で。

ジャンはそっと手を伸ばした。見慣れた容貌がそこにある。その頬に触れる。
随分久しぶりの感触が手に宿った。
邪悪だと思っていたのは、ただの錯覚だったのか? 
その邪悪さすらも、それ自体があいつの一部だとしたら。
だとしたら、こいつは御神苗本人だ。
もしかしたら「43」なんて存在しなかったのかもしれない。
最初から、お前だけがいた。
なあ、俺もお前と同じだよ。どんなに恋しくても、絶対に一つの存在にはなれない。
たったひとつだけ違う点があるとすれば、

俺はお前に触れられるってことだ。

御神苗は反射的にジャンの手を振り払おうとしたが、ジャンはそれを許さなかった。
二の腕を掴んで、引き寄せた。驚いたように顔を上げた御神苗を捕まえる。
腕の中の彼は、記憶の御神苗と寸分違わないように思えた。
暴れても知らない。
何度も抱き合って、お前はもうその温度を知っている筈だ。
人に馴れない野良猫を飼い馴らすみたいに。

抵抗していた腕が、ある瞬間だらりと垂れる。
諦めたのか、それとも違う理由からなのかはわからなかった。
それでもジャンから逃げようとしなかった。
なあ御神苗、ここは随分寒い。
もう帰ろう。
彼の表情は見えなかった。


一度だけ強くジャンを抱き返すと、それから彼はふっと手の中から消えた。

 









 

 


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