誰かに呼ばれた気がして、御神苗は顔を上げた。
耳を澄ましても風の音が強くて何も聞こえない。
空耳だ。
断崖の上に御神苗は座り込んでいた。
何かを待ちすぎて、感覚がおかしくなっている。
ずっと待っている。随分長い時間がすぎたような気がした。酷く疲れていて、もう一歩も動きたくない。
けれど眼前に広がる荒野は、いつもと変わらずに砂を巻き上げ砂丘を作り、そしてまた消えていく。
紫色の稲光が空を割る。
目下には川が流れている。世界を貫くように、流れは地平線へと至る。
御神苗はずっとその川を見つめていた。
いつからこうしているのかも忘れた。何故ここにいるのかも、何を待っているのかも。
生まれたときからこうしているのかもしれなかったし、ついこの間ここに落ちてきたような気もした。
寒くて、蹲ったまま自分の体をまた抱えた。
誰もいない。
ここには、自分の他に誰も。




 

***




 

彼が消えた後に、か細い糸が残されていた。
ジャンはそれを追って、俄かに走り出した。
まだ糸は切れていない。これを追えばその先に必ずいる。
暗雲がますます低く立ち込め、風が勢いを増した。嵐が近づいているのがわかった。
白い砂の上で、糸は少し光って見える。頼りない道標がジャンを急がせた。
ぐずぐずしていたら、おそらく自分も取り込まれてしまうだろう。
砂に足を取られそうになりながら走った。
嵐が来る前に。
やがて視界を横切るように、流れる川が姿を現した。
砂丘に飲み込まれることなく、蛇行しながら地平線に向かって流れている。
遠くに小高い丘が見えた。遺跡のような岩石で出来た丘。黒い木々がそれを覆っている。
後ろを振り返ると、竜巻のような渦が空を覆っていた。何もかもを飲み込み、地表から攫っていく嵐が。
あれが来たら多分、糸は消えてしまうだろう。辿り着けなくなる。
(水辺を探しなさい)
魔女の声。そうだ、あの川が多分境界だ。こちらとあちらを分ける水。
ジャンはもう振り向かずに走った。



 

***



 

やがて黒い森が見えた。岩場は険しかったが、獣道のような細い道を辿ってそこを登る。糸は消えていない。
森に入り込むと、一気に視界が失われた。
光の差し込まない、暗い森。
糸だけがぼんやりと光っていた。
時折覗く空も真っ黒になっていて、雨が落ちてこないのが不思議なほどだった。


ジャンは大声で彼を呼んだ。



 

***






川のほとりで、もう一度御神苗は顔を上げた。
聞きたかった声がした。
今度は幻聴ではなかった。自分も叫びたかったが、上手く声が出ない。
御神苗は立ち上がり、ふと気が付いた。
手首に細い細い糸が巻きついている。
いつからあるのか、何故あるのかわからなかったが、これがきっと繋がっている。
あいつに。





***





茂みを飛び越え、ブッシュを潜り抜けた。まるで戦場だ。どれだけ早く目標に辿り着けるか、嵐と勝負している。
そして唐突に、森を抜けた。

そこに見慣れた顔があった。

息を切らし、あちこち怪我もしている。酷い有様だ。それでもそんなことはどうでもよかった。
驚いたようにこちらを見ているのは、確かに御神苗だった。

「ジャン、」とその口が名前を呼んだ。

やっと見つけた。それからふっと笑いがこぼれた。自分がこんなに必死になって、傷だらけなのがおかしかった。

「迎えに来たぞ、この馬鹿野郎」

あの、二人でいた密林から、一気にここに来たような気がした。
あれだけ長い距離を追い、ジャンを導いてきた糸は、すでに数十センチの長さになっていた。手を伸ばせば届く。
すぐそこに嵐が迫っている。
急いで引き上げなければならない。
森が軋む音を立てた。木々が引き裂かれ、巻き上げられていく。世界が崩壊していく音。
喋っている暇はなかった。
ジャンは御神苗の体を抱えた。
それから嵐がやってきた。






***





……なんだっけ? こういうの、知ってるな、俺。
ああ、オルフェウスだ。ギリシャ神話の、冥界へ下った男の話。
死んだ妻を連れ戻しに行くが、戻る途中に決して振り向いてはならないと冥界の王に釘をさされる。
振り向いたらお前の妻は二度と戻らない。

決して、振り向いてはいけない。

オルフェウス、てめえは大馬鹿野郎だ。
失いたくないものなら、絶対に、手を離すな。
掻っ攫って、しっかり抱きかかえていろ。

眼前には崖。

跳んだ。この水が、レテ川の水でも構わない。神話の中の、忘却の水。
全て忘れたとしても、またやり直せばいい。


心臓が止まりそうな冷たさが二人を包んだ。
重力が反転し、沈んでいるはずの体が空に向かって浮かんでいくように感じた。


遠く、小さな白い光が見える。


星屑が零れたような、か細く頼りない、一筋の光。

 

 


お前はずっと、あの淵で佇んでいた。
一片の光も射さない、暗く澱んだ川の淵で。
そこは境界線だ。
人間と獣の、苦しみと安寧の。
そして、生と死の。

そこは死線の淵だ。

それを越えれば楽になると知りながら、踏みとどまっていた。蹲って。
たった一人で。

澱みを見つめるのはもうやめろ。
まだ引き返せる。

 

この手を離すくらいなら、永遠に地上に戻れなくったっていい。

だから、もういいんだ。

 

 

 

目を覚ませ。

 







***





 

 

眠る御神苗の眦から一筋の涙が流れるのを、魔女だけが見た。


彼が瞼を開けると、そこはもう昏い水辺ではなかった。

 

夜明けだった。
病室に、微かな光が差し込んだ。
一日が始まり、生き物が動き出す、その光。

 

光あれ、と誰かが言った。
全てはそこから始まるのだと。

 






 

***










お帰りなさい、とティアが言った。
魔女がいるということは、戻ってきたのだ。
ずっと体は寝ていた筈だが、酷い疲労がのしかかっていた。それを振り切って、ジャンは体を起こした。
「死ぬかと思った……」
「危ないところだったわ。制限時間一杯というところね」
ティアが手にしたリールの、その糸が溶けるように消えた。
「御神苗は?」
それを見て唐突に思い出す。隣のベッドには誰もいない。
まさか、手を離したのだろうか。川に飛び込んだところから記憶がない。
ティアがふふっ、と笑った。
「戻ってくるわ。貴方より先に目を覚ましたから」
「あいつ……だったか?」
恐る恐る聞いた。けれど魔女は答えない。
「自分の目で確かめなさい」
それだけが、貴方たちに信じられるものでしょう?
謎めいた微笑を浮かべるティアを、ジャンは一瞬違うもののように見た。
いつものティアではない、本物の。
「もう、おかげですっかり徹夜しちゃったわ。全く美容の敵よ。じゃあ後はよろしくね」
「あ、おい! ティア!!」
魔女は軽やかな足取りで部屋を出て行った。ジャンは追いかけようとして、あまりの体の重さにそれを断念した。
全く、こっちこそ任務よりハードな一晩だったのだ。
やがて、ガチャガチャと食器の触れ合う音にあわせて足音が聞こえた。
それがドアの前でガシャン!! といって止まる。
ジャンは思わず噴出しかけて、顔を改めた。
御神苗が戻ってきたのだ。
一番最初にどんな罵声を浴びせてやろうか、ジャンは少しだけ考えた。

 





 


***






 

 

ティアは病院の中庭で、ふと足を止めた。
静かな朝だった。鳥が囀り、草木が今生まれたような碧色を惜しげもなく晒していた。
硝子の向こうでは何事もなかったように、誰も彼もが忙しげに動いている。
そう、何事もなかったのだ。
世界は休みなく動いていて、見るものによって色を変え、形を変える。
「……目の前にいるというのは、それだけで奇跡なのよ」
欲しいものを掴むことが出来るのは、それを求めた者だけに許される。

「求めなさい。全てを」

硝子に映ったその姿が、霞のように消えたことに気付いた人間は一人もいなかった。

 

 



 

 

 

 

END

 

 

 

 

20091111


































後記的な言い訳