ジャンは暗闇の中で目を開いた。
起き上がり、時計を見る。夜の闇が一番深い時間だった。
もう体は何ともない。跡形もなく左腕の傷は癒えている。
しかし医療チームの判断でジャンはまだ入院患者扱いされていた。
いつもなら聞きもしないが、それに逆らわなかったのは御神苗に何かあったら他の誰も対処できないと思ったからだった。
あいつが目を覚まして、その気になればこの病院はおそらく虐殺現場になるだろう。
それはどうしても避けたかった。
ジャンは上着を羽織り、病室を出た。
ナースセンター以外は全て寝静まっており、通路の常夜灯以外全ては闇に包まれていた。
普通病棟の、一番奥に御神苗は移されている。辺りに人影はない。
ジャンはゆっくりとその扉を押し開いた。
何故こうも緊張している? ここは密林でも遺跡でもない。ただの病室だ。
けれど本能が危険だと叫んでいる。
一瞬たりとも油断してはいけない。
病室の中は、廊下よりも闇が深かった。
ベッドが一つ、真ん中に置かれている。仕切りのカーテンは開かれたままだ。
月明かり程度があれば動くのに何の支障もないが、ここには一縷の灯りすらない。
全ては静かな闇に沈んでいた。
唐突に、後ろで声がした。
「……何か俺に用か?」
完全に不意を衝かれた。ジャンは振り返る。全く気配がなかった。
さっき開いたドアのすぐ脇に、御神苗が立っていた。彼はジャンが来ることをすでに知っていたようだった。
「初めまして、と言った方が正しいのかな?」
そう、どこか楽しげな声で彼は言った。
「……お前は……誰だ?」
ジャンは背筋を伝う冷たい汗を感じながら問うた。
「……便宜的にナンバリングされただけで、『俺』に名前はない。だからその問いは意味がないな。俺は俺だ」
彼から発される圧力があった。
ジャンを威圧するそのプレッシャーは、過去に感じたことのないものだった。
それは警告であり、紛れもない殺意だった。
過去に御神苗と一度も闘ったことがないわけではない。
しかしそれは全て仮想敵としての模擬戦で、本気で命のやりとりをしたわけではないのだ。
「マジかよ……」
思わず呟きが漏れた。
御神苗と殺しあう。今、ここで。
しかしいかなる状況下でも、ジャンの半分は戦況を冷静に分析し、そして戦略を考えている。
割り切らなければいけない。戦場で、迷いはすぐさま命取りになる。
「これ」は御神苗ではない。敵だ。そう思い込む。
状況は不利だった。丸腰で来たことを後悔するが、もう遅い。
殺す気で行かなければこっちが殺られる。
できるか?
自問している暇などなかった。やるしかない。
その「御神苗」は手にナイフを持っている。
それは幸いにも、いつものオリハルコンではない。林檎を剥くような、小さなペティナイフだ。
しかし今の御神苗にナイフを持たせるのは危険すぎた。全身が凶器と考えた方がいい。
ナイフを体のどこかに一瞬でも当てられたら致命的だ。
「クソ…ッ」
リーチはこちらの方が長い。懐にさえ入られなければ凌げる。
目の前で閃光が走った。咄嗟に体を引くと、瞼の数ミリ先を刃が薙いだ。パラ、と金色の線が落ちていく。
御神苗は猫のように音も立てず次々にナイフを繰り出す。
迷いなく急所だけを狙って、確実に仕留める気だ。
こちらが空手では埒が明かない。
せめてハンドガンでもあれば、末端を撃って動きを止められるのに。
丸腰でこの御神苗と相対するのは初めてだった。
おそらく「動くものは敵」という不文律が彼を支配している。
「やめろ……」
ジャンは小さく呟いた。
けれど今、こいつの相手をしているのが俺でよかった、と思った。プロである自分で。
多分アマチュア相手ならひとたまりもない。完全にキルマシンと化したこいつを止める術はないだろう。
もし相手が一般人だったら、そしてそれが彼の知り合いだったりしたら。
――きっとまた泣くくせに。
両手を真っ赤に染めた後で、お前は我に返って泣くだろう。

御神苗が距離を詰めた。ジャンが繰り出した拳をかわし、下から掬うようにナイフを首筋に向けてスライドさせた。
頚動脈を正確に狙っている。その正確さ故に次の動きが予想でき、ジャンは御神苗の手首を掴もうとした。
その瞬間目の前の御神苗が消えた。どこへ、と感じる間もなかった。
しゃがみ込んだ反動で空に飛んでいる。ジャンの肩を支点にして曲芸のように回転し、背後を取られた。
首が抱え込まれ、氷のような温度の刃が当てられた。
チェックメイトだ、と御神苗が言った。
「野郎……ッ」
ジャンはナイフとの間に掌をねじ込み、刃を握った。
そのまま体を沈め、ナイフごと御神苗を背負い投げた。
膂力で御神苗はジャンに敵わない。そもそもウェイトが違いすぎる。
掴まえてしまえば簡単に投げられるのだ。
受身を取らせずに押さえ込み、腕で喉を捕えた。ナイフを持つ右手を押さえて叩き落す。
御神苗の息が上がっている。獣のようだった。
むしろ自分に与えられるべき形容詞を、御神苗に対して思った。
御神苗の口が開き、犬歯が見えた。
咬まれる、と思う前にジャンは反射的に動いていた。
自分の息遣いがうるさかった。
御神苗の顎に自分の腕を噛ませ、ジャンは御神苗の鎖骨へ喰いついていた。
決して華奢ではないそのまっすぐな骨を、捕えて、折った。

ごきり、とくぐもった音がした。

「グ……ァ……ッ!」
獣の唸る声がした。
恐らくその時、ジャンは少し気が触れていた。
しかしそれと同時に脳裡のどこかで冷静な判断を下す。
暗殺技術だけならば御神苗の方が圧倒的に勝っているが、それは相手に気付かれないことが前提だ。
正面から組み合えばウェイトとスタミナのあるほうが勝つ。
なおかつ御神苗はここ数日ずっと病床にいたのだ。完全な状態とは言いがたい。
その右鎖骨を折った。少なくとも今、利き腕はもう使えないはずだった。
しかし御神苗は戦闘意欲を失わなかった。なおもジャンを引き剥がし、取り落としたナイフへ手を伸ばす。
右腕で。
(そこは折っただろうが!)
咄嗟にナイフを蹴り飛ばした。
ナイフは床を滑り、壁に当たって止まったがジャンはすでにそちらを見ていない。
御神苗が顔を歪ませたのは鎖骨を噛み砕いた瞬間だけだった。
能面のような無表情を保ち、ジャンの手首を掴み返した。
搦め手でジャンの左腕関節を狙ってきた。
危うく逆に折られるところだった。すかさずその腕を外し、御神苗の喉元を鷲掴みした。
「……ッ!」
もはや意識を奪うしかなかった。首を掴んだ手にさらに力を込めた。
頚動脈を極めれば大の大人でも数秒も持たない。その数秒が、果てしなく長かった。
やがて目の力が消え、御神苗の全身がようやく脱力した。
それを確かめて、御神苗から体を離すのに随分時間がかかった。
勿論疲労と痛みはあったが、それよりも気持ちの重さに堪えかねた。
それからジャンはようやく起き上がった。ナイフを握った左手からぼたぼたと血が落ちた。
危なかった。紙一重で、喉元を噛み千切られるところだった。……お互い様だが。
けれど殺意の量は間違いなく御神苗が勝っていた。
左腕は完全に使い物にならない。血も流れた。
傷などすぐに癒える。跡形もなく。けれど御神苗の骨を折る、あの感触はしばらく消えそうになかった。
ああするしかなかったとは言え、酷い有様だと思った。もう二度とやりたくない。
御神苗は鎖骨を折られた激痛をものともしなかった。
それは強靭な意思というより、もはや機械的に、「敵」を排除しようとした結果なのだろう。
しかし脳に血液が行き渡らなければ、いかなる生物だろうが意識は保てない。
「魔女……呼ばねえと……」
このままでは自分まで獣化してしまう。
スプリガンが二人、アーカム内で殺し合っている。酷い冗談だ。
魔女でもなければ上手く処理してくれるとは思えなかった。
仰向いたままの御神苗をぼんやり眺めた。超人的な、というよりすでにヒトの動きではなかった。
おそらく暗示で強化していたのだろう。傷を負おうと骨が折れようと、擬態すら戦術として敵を排除する。
そういうプログラムを組まれていた。
そこまでしなければ生き残れない状況に、彼等は置かれていた。
あの悪名高き、殺人兵器集団。
彼にナンバリングを施し、一生消えない痕を残した。
母体こそすでに無いが、それは確実に御神苗の精神に深く根を下ろしているのだ。
そしてその昏い影が過去から手を伸ばし、今また御神苗を連れ去ろうとしている。

 

 





 


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