under my skin

 

 

 

ジャンは見慣れた天井を見上げた。
さっき飲み下した解熱剤が、ようやく視界を少しクリアにした。
どんな種類であれ、薬は効きにくい体質だ。ほぼ気休めに近いが、ないよりはマシだった。
そもそも、やたらと粘膜が乾くのが風邪の予兆だとわかっていたのだ。
なのに呼び出しの電話に応じたのは、ただ仕事をしていれば頭はすっきりするだろうと思ったからだ。
仕事はきっちり片付けた。そこまではよかった。帰投する段階で、目眩が酷くなった。背中が痛んで、熱かった。
風邪をひくなんて、十年に一度あるかないかだ。それくらい珍しいことだった。
空港に降り立った時にはすでに病人の呈だったが、他の誰かに悟られずに済んだのはまあ不幸中の幸いだった。
これでしばらく何も考えずに済む、と思った。
そう、余計なことを考え過ぎている。
もともと特別な趣味もない。没頭できる何かを、仕事の他に持たない自分をどうこう思ったことすらない。
求めているのはシンプルな世界、ただそれだけだ。
家にたどり着き、上着を脱ぐのもそこそこに、錠剤を飲み下しシャワーも浴びずにベッドに倒れ込んだ。
闇はすぐにやってきた。


だから、それは夢だとわかっていた。


「ジャン、」


御神苗が俺を呼んでいる。どこか幼子のように。夢の中でも、俺は女ではなく御神苗を求めるらしい。
大概イカれてる。けど、1+1が2って言うみたいに、そう決まっている。
俺は喉が渇いている。御神苗が俺に口付けた。水が俺の喉に流れ込んできて、俺はそれを貪るように飲んだ。
既視感。
ああ、これ、どっかで見たな。いつかの戦場で、怪我した俺が発熱したときだ。怪我をしたことを隠していて、それが膿んで悪化した。
食い物も、オートミールのレーションすら受け付けなくなって、このままだと軽く死ぬ、と自分でも思った。
御神苗がくれた水だけが俺の生命線だった。二人だけのミッションで、他に救援はなかった。
野営テントで、医療品もろくになかった御神苗は必死だったはずだ。逆の状態だったら、俺もそうしただろう。
御神苗は親鳥みたいに俺に水を与え、そして俺は素直にそれを飲んだ。
しかし閉塞したテントの中で生死の境をさ迷っているというのに、俺は酷く幸福だった。
それは俺が望んだ世界だったからだ。お前と二人きりで、お前が俺を看取る。お前より後に死にたくない俺の、浅ましい欲求が満たされていた。
今ならあのときの自分を殴って殺したい。
御神苗の心境を考えたら、絶対にそんなことは考えられないはずだった。
何があっても、いかなる戦場からだろうと生還する。それが俺たちに課せられた義務であり、存在価値だ。
それを俺は自ら放棄しかけていた。普段なら絶対にありえない、けれどその時はそのことしか考えられなかった。
身体が弱る、ということはそのまま精神の弱体化につながる。俺は相当消耗していた。そして、欲求に対する自制心がほぼ皆無だった。
だから言った。

「もう何もすんな」

ここは前線だ。この状態が続くなら、二人より御神苗一人の方が生存率は間違いなく高い。
戦闘中に倒れた仲間は、できうる限り救助・介抱する。しかしそれができない、もしくは手遅れの状況であれば、とどめを差すのが常套。そうだろう?
確かあの時、御神苗は俺を全力で殴った。死にかけている俺を、全力の拳で。
それで目が覚めたんだ。

けれど、夢の中の御神苗は優しく笑った。
そして、キスをした。水の補給ではなくて、100パーセントのキスだった。
それから俺たちは交わった。刹那的に、けれどそれが永遠に続くような錯覚の中で。
御神苗は喋らなかった。その喉は、ただ耐え切れない喘ぎだけのために鳴った。
肩に食い込んだ御神苗の爪が、俺の背中に傷をつけた。
その痛みすら甘美で、そこで俺は我に返る。
そう、これは夢だ。このまま、何も考えずにいられたら、どれほど楽だろう。
でもこの御神苗は本物じゃない。
俺が欲しいのはこいつじゃない。
そんなに俺を誘惑するな。
帰れなくなる。
あの日常に。戦って、喰い、そして眠りを貪るその暮らしに。
お前と二人だけで、繭の中で融け合うように抱き合いたい。
その欲望を振り払えなくなる。
お前だってそうだろ?
一番欲しい望みは、まだ叶わなくていい。
だって叶ってしまえば、その先に待つのは緩やかな絶望だから。
今は、まだ。

夢魔は煙のように掻き消えた。あいつの顔をした悪魔。
今は要らない、いつか俺が一人どこかで死ぬ時に、また来てくれ。そうしたら、俺の全てをくれてやるから。
それまでは、この皮膚の下に隠しておく。
誰にも暴けないように。
その欲望を、素知らぬ振りで。

 

 

眩い光が頬に落ちて、目を開けた。
ああそうだ、夢だ。
恐ろしき示唆を含んだ夢。
まだ体は怠いが、気分は良いと言ってもいい程に回復していた。
汗で張り付いたシャツを脱ぎ、着替えようとした時、軽い痛みに気が付いた。
自分の背中を鏡に映してみる。
肩甲骨の上に幾本か、走る傷があった。
細く肩口へと伸びた赤い、

爪痕?

自分で付けたにしては、不自然な傷。
しばらくジャンは鏡の前に立ち尽くし、そしてシャツを着た。

傷から覗く、
それを誰にも見られないように。

 




 

 

 

 


END

 

 








 

 

 

20090506
最初はもっと甘い話だった……。
夢オチ、と言うか、何と言うか。
あれです、「雨月物語」的な怪異譚と思って頂ければ。
でもほんとにそーゆーことも世の中にはある、かもしれない。