scene.2
前線は小康状態を保っている。彼は負傷したが、相手はさらに手酷いダメージを負ったのだ。
数日が経ち、彼は起き上がって動けるまでに回復した。驚異的なスピードだ。
スプリガンは体の構造が違うのだろうか。
廊下の外で、怒鳴り声が聞こえたので注意しようと顔を出した。
「うっせーよ! 生憎死んでねえよ悪かったな!」
彼が壁に架かった受話器に向かって、凄い剣幕でまくし立てていた。
「…あ? …ああ、わかったよ。…ん、大丈夫だ。」
どうやらトーンが落ち着いたので、これでは立ち聞きになると部屋に引っ込もうとして、俺は見てしまった。
「…っ、バーカ、言ってろ!」
彼が顔を真っ赤にして受話器をたたき付ける所を。
そして彼が俺に気付く。
「ああ、騒いでゴメン。うるさかった?」
構わないが、傷に障るからまだ寝ていた方がいい、と言った。
恋人か? とも。その割には言葉が粗かったけれど。
「あ、…あー、そう、なのかな…」
珍しく歯切れの悪い様子で、彼は頭をかく。
彼の恋人を俺は想像する。きっと年上なのだろう。
しかし、この少年を相手にするというのは、さぞかしタフな女性なのだろうと思う。
そんな人間がそうそういるとは思えないが。
「アイタタタ…」
怒鳴ったせいで胸郭が痛むらしく、俺は慌てて彼をベッドに押し込んだ。
彼の恋人。それはこの密林で出会うという亡霊のように、茫とした想像に留まった。
そして、その想像は翌日現実と化すことになる。
「てめ、何しに来た!?」
彼が気色ばんで言った。
「テメーの後始末に来てやったんだよ。レジスタンスの残党がまだ残ってるらしいじゃねえか。使えねえなこの二流」
悪態とともに現れたのはもう一人のスプリガンだった。
ジャン・ジャックモンド。噂には聞いていたが、面と向かって会うのは初めてだった。
金色の髪と蒼碧の瞳を持った、野生の豹みたいな青年。
その整った唇から、フランス語交じりのスラングが矢継ぎ早に繰り出される。
「テメーがミスらなきゃ俺は楽しく休暇に入れたのによ。ったく、何だそのザマは」
「るっせえ。誰がてめえに来いって言ったよ! この傷さえなきゃてめえなんか…」
こちらはこちらで、やはり負けていない。
ガルルル、とでも言いそうな彼の額をパチンと指で弾く。
「喋んな。黙って寝とけ。このジャン様が華麗にカタつけてきてやるからよ」
……何と言うか、犬猿の仲、なのだろう。
単体で動くことの多いスプリガン同士というのは、そういうものなのだろうか。
病室の脇で、点滴の準備をしながら少し途方に暮れてそう思った。
「おい、アンタ」
話しかけられた。びっくりして点滴のボトルを取り落とす所だった。
「コイツ、重傷抱えて病院抜け出す前科が散々あるからさ、よく見張っといて」
Yah、と答えたが相手は聞いていなかった。足早に病室を出て行ったからだ。
すれ違った瞬間に、どこか嬉しそうだ、と感じたのは気のせいだったろうか?
嬉々として戦場に出て行くスプリガンを、俺は無心に見送った。
残務処理、と言った体で戦闘はあっという間に終結してしまった。
彼らにかかれば、こんなあっけなく片付くものなのか。
同僚たちは一気に祝賀モードに突入している。
その晩ささやかに行われた宴に、立役者である筈の二人は姿を現さなかった。
宴の後で、俺は病棟に時計を置いてきたことにふと気が付いた。
もう彼は寝ているだろうか?
アルコールに染まった頭で、一瞬だけならと考え、足を向けることにした。
誰も居ない病棟を、フットライトの光に導かれるように歩く。少し千鳥足だったかもしれない。
柄にもなく呑みすぎたのだ。
消灯時間もとっくに過ぎて、辺りは暗い。しかし慣れたもので、足は迷わず目的地を目指す。
おそらく、時計は入口の作業ワゴンに置いた筈だ。
彼の病室に辿り着き、そっとノブを回した。建てつけの悪いドアでなくてよかった。
部屋の中は静かな闇に満たされていた。
うっすらと、白い壁がどこかから入ってくる月光を反射させ、物の影くらいは何とかわかる。
最後に出たときには降りていなかったカーテンがベッドを覆っている、その隙間。
そこに、誰かいる。
ベッドにかがみこむようにして、そいつは立っていた。
流れ落ちた長い髪。
祈りの仕草に見えた。
そのベッドに寝ている者が、まるで死に瀕しているかのように、真摯に。
そして今、彼に何かを与えた。
そういう瞬間だった。
おそらくはキスを。
息を飲んだ拍子に、振り向いた肩越しに目が合った。
蒼い双眸が、闇の中ではっきりとは見える筈もない俺を、真正面から捕えた。
フレア。
最前の仕草が嘘のような、あからさまな威嚇。その手に銃があれば俺は撃たれていただろう。
怖気づいた俺に、一瞬哀れむような視線を投げ、それからその目がニッと三日月形に歪んだ。
笑ったのだ、と気付くまでに数秒かかった。
ああ、そうだった。忘れていた。これは死神の仲間なのだ。
人でありながら、死と破壊をもたらす兵器。
俺は今度こそ、膝頭が笑うほどゾッとして、音を立てず扉を閉めた。
その後で、どっと冷や汗が浮かんだ。可及的速やかにその場を離れるべきだ、と本能が警告している。
しかし足が動かない。
どうしてこんな恐怖体験を強いられなければいけないんだ、理不尽だ。
そう思ってから、鈍い俺はようやくレッドゾーンに足を踏み入れていたことに気付いた。
禁区なのだ。「彼」は。
そしてそれを取り巻くものもまた、人とは相容れない何かなのだと。
その晩は、まんじりともできなかった。
夜が明け、朝の光が戻ってくる。
それに、これほど安堵したことはない。
二人がベースを出ていく。
彼は朗らかに笑い、「ありがとな、」と俺に言う。
礼を言われるようなことはなにもしていない。無事でよかった。そんな意味のことを、口籠もりながらやっとのことで言った。
他に何が言えたろう? この無邪気な少年に。
後ろにいるその人間が、どんなモノかを知っているのか、とでも?
きっと、そんなことは言うまでもなく百も承知なのだろう。
そして、これが一番恐ろしいのだが、それを手懐けているのはおそらく彼の方なのだということ。
ベース中が見送る中、金髪のスプリガンがこちらに気付く。
なにか光るものを投げて寄越す。
慌てて受け取り損ねそうになったそれは、俺の腕時計だ。
どんな顔をしたらいいかわからず、引き攣りながら見返すと、金髪の彼は口の前に人差し指を立て、ウィンクした。
思わず固まった。
俳優もかくやという美貌から、無造作に投げられたそれは、爆弾並の破壊力を持っていた。
そのまま二人は飛行準備の整ったヘリに乗り込む。
ヘリが上空でホバリングし、やがて視界から消えて行くまで、俺の金縛りは解けなかった。
「喋ったら、どうなるかわかるよな?」
そういう意味だ。
全く、一体誰に喋れるっていうんだ。あれだけ威嚇しておいて、まだ足りないのか。
そんなに大切なら、鎖でもつけてしまっておけばいい。
誰にも見られないように。
それを、彼が受け入れることは金輪際ないだろうが。
ご愁傷様、だ。全く、本当にスプリガンというものは不可思議だと思った。
強い、強い風が吹いて、雲が薙ぎ払われていく。
嵐は過ぎ去って、平穏が訪れる。
俺は通常任務に戻ろうと、空を眺めるのをやめ踵を返した。
END
20080629