V-22のプロペラ音が響き始めた。整備とチェックが終わり、フライトまではあと十数分というところだ。ブリーフィングを済ませる。
未明、ようやく東の空が明るくなりだしたがまだ夜明けには間がある。日本との時差は15時間。
気温9度、湿度30%。メキシコは乾季。真冬でも日本より温暖だ。今は肌寒いくらいだが、日中は30度近くまで気温が上がる。
フライトコンディションは上々。
だが俺の気分は一向に晴れなかった。
タラップを上りながら、後ろ髪を引かれるように振り返ってみる。整備員が忙しげに立ち回っているほかには誰もいない。
当たり前だ。ここはすでにメキシコシティなのだ。これからすぐにレッドゾーンへ飛ぶ。
しゃきっとしろ。気合を入れるために両手で自分の顔を叩く。
仕事だ。

 

南米メキシコ、オアハカ州の州都オアハカ。海抜2千メートルの、火山が基となった地形にその遺跡はある。
世界遺産になっているモンテ=アルバン。登録されてまだ日が浅いが、現在も調査は進められている。
アーカム調査部隊が最初に現地入りしたのはすでに数年前だった。世界遺産にもなると、観光客は激増する。
一度調査が入れば、その後再調査が入ることは稀だ。
都市や農地の拡大により遺跡が破壊されたり、盗掘被害や風化による剥落などに対し、20万箇所とも言われる遺跡たちの調査と保護は間に合っていないのが現状だ。
オアハカ周辺地域の文化遺産に対して、日本のODAも無償協力している。それにアーカムが駆りだされた、というのがそもそもの正しいところだろう。
メキシコでは主に財政的な理由から、高水準の保護技術、調査機能は望めない。
もちろんアーカムとしても古代遺跡が、罪のない家族の炊飯場になっていくのをみすみす見逃したいわけではない。
政府は援助国として世界に金をばら撒いてきた。だが近年ではそれも縮小される傾向にある。
最初こそ派遣のような立場だったわけだが、このまま資金が先細りしていくのを黙って見過ごし、救える遺跡を見殺しにするのはアーカムの望むところではない。
そこでアーカムは遺跡の密集地帯に常駐する調査団を据え、大々的な「トリアージ」を行おう、と政府に持ちかけた。
トリアージというのは緊急救命の場で使われる、最優先患者にラベルをつけることを指す。
要するに緊急性の高いもの、劣化の進んだものにまず順位をつけ、上から調査していこうということだ。
できるだけ少ない予算でできるだけ大きな成果を得たい政府は、その提案に乗った。そんな調査のための調査が始まったのだ。
当初、目的であるトリアージは順調に進んでいた。
住民たちは遺跡=観光収入としか見ていなくとも、観光資源がそのまま収入の増加を意味するため、調査に対して歓迎こそすれ反発は少ない。
メキシコの奥部では今もトリアージされ順番を待つ遺跡がまだ長い眠りについていたはずだった。

だが、今年に入り、常駐していた古参の調査員たちに異変が現れた。
それは一人の引いた風邪から始まった。喉の炎症、咳、悪寒、下痢などの症状が認められ、医師は気管支炎と胃腸炎の処方をする。
数日寝ていれば全快するはずの軽微な症状だった。
それが数日で致死的に悪化する。食物も水も空気にも異常は見られないのに、特定の人間だけが発症し、寝付き、そのまま還らない。
空気感染であれば、衣食住をともにしている全員が罹患するはずなのに、それは酷く限定的だった。
最初は現地の風土病かと思われていたが、先週4人目が亡くなったとき、調査員たちは緊急通信を用いてティアに連絡を入れた。
「これはただのウイルス性疾患ではない」と。
同行していた医師に事情を聞くため本部へ召還しようとしたのだが、メキシコを発つその晩に医師と連絡がつかなくなった。
どこにもいない、という。現地の調査団は浮き足立ち、統制が取れなくなった。
原因不明のウイルスに対する不安から、「インディヘナの呪い」とまで囁かれているらしい。
なおかつ、現地の治安が急激に悪化しているという。周辺住民にも被害がでているようだ。
調査団はひとまず全ての活動を停止し、最低限の補給以外には外部との接触を絶っている。
世界中からやってくる観光客がわんさと流れ込む場所で、もし爆発的にウイルスが蔓延したら、それこそ世界規模の被害にもなりかねない。
それが昨日の話だ。メキシコは通信状態がいいとは言えず、状況がリアルタイムで本部にまで流れてこない。
「本当は貴方たちの手を借りたくはなかったのだけど」
とティアは言った。
「インディヘナ…要するに先住民の子孫ね。オアハカを出自とする一部のインディヘナが武装し、ゲリラ化しているようなの。
元は小さな宗教集団だったのが、近年急激に力を持った。おそらく外部からの調査に異論を持つ集団ね。
あるものはあるがままにという……世界でもよくあることなのだけれど。今回は状況が悪いわ。調査団には武器を大量には持たせていない。
あの辺はメキシコシティにくらべて治安も悪くないし、調査団が入ってからこっち、現地民との衝突はほとんどなかったから。
それが突然悪化して、近隣では夜間外出令が出たところもある。
アーカム調査チームが略奪、襲撃のターゲットにされている可能性が高い。緊急事態と判断し、出動を要請します」
ティアは宣言した。ボスの風格と女王の威厳でもって。
「最重要目的は調査団23名の護衛。それから未知のウイルスに対する防護、検疫。検疫するにも身の回りの安全が確保されなければ何もできないわ。
とにかく情報が欲しい。安全を確保できたら、外周で待機する医療チームに任せて。その先遣隊として行って欲しいの」
「先遣隊の編成は?」
「一個小隊が限度。それ以上では補給線及び実質上の入管は難しい。とにかくスピードが必要なの。隠密行動のようになるけれど」
「そんなんいつものことだろーが」
「でも、とにかく今回は事情があまり明らかになっていないの。ゲリラに拘束されている可能性もある。だいぶ時間をロスしているわ。すぐに飛んで欲しい。
こちらとしても、あの猟場…メキシコは遺産の海だからね、あの辺を誰かに明け渡すわけにはいかない」
「了解」
「優、今回は相手が見えないかもしれない。ただのゲリラだとわかればそれでいい。でもそれ以外にも不安要素には事欠かないわ。用心して。防疫に関してもね」
「わーったよ。とにかく行ってみねえことにはわかんねえだろ、大丈夫だ」
「ジャンの任務が終わり次第、そちらに向かわせる。くれぐれも気をつけて」
普段のティアには見られない、焦りのようなものをふと感じた。
魔女は妖精を心配したりはしない。心配しなくてもいいように、魔女が妖精をそう作ったのだ。
「いらねえよ、俺一人で十分だ」優は軽口を叩く。それは杞憂だと。
そうね、そう祈るわ。幸運を。優。
魔女が囁くように言った。

 

『―――宗教集団「黒い葦」。民族解放と純血を謳い、信者を集めるゲリラ組織である。
元々は太陽信仰を持つインディヘナ(現地先住民)が多数を占める、小さなカルト集団であった。
人身御供を捧げることによって来るべき終末を遠ざけ、人々を未知の楽園へと導くことが最終目的であるという。
古代アステカでも行われていた、人間の心臓を太陽に捧げその恩恵を永続させる、という思想が引き継がれているらしい。
現代に至ってさすがに心臓を捧げるというようなことはないが、今も人間の血液を信仰の証とし、喜捨として金銭よりも価値あるものとみなしている。
「より多く捧げた者が楽園へ近づく」というのが教団のモットーだ。
インディヘナたちの居住区が定められているわけではないが、スラムに彼らが多いことから、自警団としての力も持っており、防衛と治安維持のためと称して武装化を進めている。
メスティーソ(混血)よりインディヘナを正統な血統とし、外部からの「侵入者」に対して敏感で排他的である。
遺跡調査団等の介入なども快く思っていない。
後進的で文明化の進んでいない人間たちに「知」を与えるという名目で、政治に不満を持つ若いインディヘナたちを次々に取り込み続けている。
近年オアハカを中心にめきめきと信者を増やし、現在は信者2万人、協力者はその数倍に上るとされている。
「喜捨」と称した供血が、彼らの最初の儀式である。聖杯と呼ばれる盃が徽章であり、信者は体のどこかにその刺青を入れている。
幹部たちの年齢は低く、成年に達していないものも信徒として盛んに受け容れている』


「……で、これが今回の相手か?」
優は報告書のファイルを閉じた。情報部の人間が頷く。
「これはほんの一部だ。『黒い葦』はここ1、2年で急激に大きくなっている。注目すべきはその資金力だ。
表には出てこないが、裏で大きな額の金が動いている。問題は、彼らが『純血』を賛美しすぎるあまり、外資の力で動く企業や調査団を無差別で襲撃することにある。
アーカムは独自にA級エージェントたちが自衛しているが、今回のウイルス騒ぎで防衛が手薄になっている。そこを狙われるとこちらとしても手痛い損害を被ることになる」
「手痛い損害ね……」
要するにせっかく打った布石を失いたくないのだ。アーカム調査団が築いてきた遺跡調査のシェア争いが背景にある。
しかし不思議なのはウイルス疾患の発生と、「黒い葦」が暗躍し始めたタイミングが合いすぎていることだ。
どちらか一方だけならば、ここまで大事にはならなかった。死亡者も多数出ている。調査団は半年も前からメキシコに入っているのだ。
もっと早く反応があってもよかった。何故今なのだろうか。
「モンテ=アルバンに何か出たってことか……?」
優が呟く。情報部はそれに「未確認情報だが」と前置きし答えた。
「何かあるのはモンテ=アルバンに程近い農村だという情報がある。そこでオーパーツが出た、という話なんだが」
「へえ……?」
「現地調査団はそちらに興味を持って、遺跡調査と並行して独自に調べたようだ。そこで出たのがかなり危険度の高いものだったため、極秘扱いだった。
その調査をしていた人間がウイルスに感染したため、詳しい情報がまだ得られていないのが現状だ。そしてどうやら『黒い葦』はそれを狙っていると思われる。
襲撃した人間が、『聖杯はどこだ』と言っていたとの証言がある」
「聖杯?」
「水晶でできた、精巧なゴブレットだという。これ以上はまだわかっていない。襲撃の際、報告書やデータが抜かれたらしく、その被害も全て把握できていない」
「素通しか。ガードは何やってたんだ」
「秘密主義が災いした。限られた人員しか関わっていなかったため、何を目的に襲撃されたのか把握するのが遅れた」
「相手はゲリラつっても素人だろ? 誰かプロの指導者でもいるのか。アーカムのガードがそう簡単に破られるなんておかしいだろう」
情報部はそれに答える言葉をもっていなかった。地元のエージェントがこうなのだ。現場は相当混乱しているのだろう。
「図面と現状が異なる場合は現状を優先……てやつか」
優は溜息をついた。


オアハカ上空は晴れ渡っていた。周辺に異常は見られない。V-22が下降し、優たちを降ろした。
何かがおかしかった。人の姿が見えない。とっくに優たちの到着を彼らは知っているはずだ。歩哨さえ立っていないキャンプを前に、優が小隊長に言った。
「俺が一人で行く。ひとまず周囲の警戒に当たってくれ。無線は使うな」
防毒マスクとゴーグルを着け、優はキャンプの敷地内へ踏み込んだ。
仮設のプレハブと、炊事場のテントがいくつか。かなり大掛かりなキャンプだが、奇妙に静まり返っていた。
プレハブの中を覗く。やはり人の気配がしない。情報によれば23人はまだここに残っているはずだ。全員が寝ているということはありえない。
優は銃を構え、プレハブの扉を押し開き、中に入った。
マリーセレスト号のようだ、と思った。
テーブルに、朝食の準備がされたままになっている。誰かいた形跡はあるのに、誰もいない。
「なんだこれは……」
プレハブの中を一通り見たあと、テントの張られた広場へ出た。幾つも立てられた背の高いテントを、一つめくろうとした時、優は息を飲んだ。
テントの向こう側に誰かの手が見えた。地面に伸びたまま、ピクリともしない。
すばやく近寄ろうとした。それから言葉を失った。
広場のあちこちで人が倒れている。皆一様に、銃で撃たれていた。一番近くの男の脈を見たが、あきらかに事切れていた。
おそらく死亡から一日とたっていない。死後硬直がはじまりかけていた。
周囲を警戒しながら、倒れている人間を見て回ったが、生きている者はいなかった。
虐殺。
その言葉が脳裡をよぎる。
優は空に向けて銃を3発撃った。合図に気付いて小隊が戻ってくる。後を小隊に任せ、検疫部隊に引き渡すしかなかった。
一歩遅かったのだ。
「クソ……!」
仮設のキャンプはそれほど大規模な施設ではなかった。全ての建物内を探ったが、生きている人間は一人もいなかった。
わかったのはそれだけで、何があったのかは誰もわからなかった。すぐさま警戒線が引かれ、検疫部隊が調査に入った。
何かわかるまで、ここを動くことはできない。



「御神苗」
小隊長のジョーンズが優を呼びに来た。まだ30代手前という年齢だが、すでに老成した風貌を持っている。
ハザード現場には欠かせないマスクをしているので、表情がわからない。が、その声が緊迫している。
「どうもおかしい。ここのキャンプは……ただの虐殺というわけじゃなさそうだ」
「どういうことだ?」
「報告ではウイルスのせいで調査メンバーが亡くなっているということだったが……その形跡が見当たらないというんだ。
彼らの直接的な死因は銃によるものだ。しかも、お互いが撃ち合っている」
「何……?」
「銃痕、薬莢、共に特定できた。外部から持ち込まれたものではない。全て、アーカムが支給した防衛用の武器だ。
死体の相関位置から見て、おそらく近距離での撃ち合いになったようだ。……わけがわからねえ」
「人数は? 報告と数が合うか?」
「その報告ってのがまず怪しいもんだが……名簿と人数が正しきゃ、一人いなくなってる。俺ならまずこいつを重要参考人として追いかけるね」
「誰だ」
「最初に亡くなった4人は埋葬されていた。火葬して、骨壷を持って帰るつもりだったようだな。その他22名の死体を確認した。
だが、ドクターの死体だけが見つからない。報告じゃ、ドクターもウイルス感染したとあるのにな。
墓も死体もねえ。こりゃまだ奴は生きてて、こっから逃げ出したってことじゃねえのか?」
「ドクター……名前は」
「アレックス・ケルナー。古株だな、俺も顔は知ってるぜ」
「ケルナー…!?」
「お前、知り合いか。どんな僻地だろうと『従軍』するってんで人気あったらしいな」
ケルナーがここにいたのか。名簿を見ていたらすぐに気付いたはずなのに。
「ケルナーは……俺の昔の主治医だ」
ジョーンズが眉を上げた。
「とにかく、ケルナーを探す。話はそれからだな。事実を確かめよう」
「あのドクターが職場を自分から放棄するはずがない。そういう人なんだ」
「……わかった。地元のエージェントを使って探させる。もうじきハザード調査の結果も出るはずだ。マスクが邪魔でしょうがねえ」
黙り込んだ優を見て、ジョーンズが優の肩を叩いた。
「考えんな。起きたことは仕方ねえ。とりあえず、検死が終わったら忙しくなる。結果が出たらここは封鎖するぞ」
「ああ。わかってる」

ハザード調査の結果、現時点で何らかのウイルスに感染する恐れはないが、未知のものであるという可能性は捨てきれず、潜伏期間も考慮したほうがいい。
この現場は当局管理になること、当局の調査中の警備を担当すること。近くでゲリラの動きもあるため、しばらくここに駐留するということになった。
また、亡くなった調査チームは表向き「事故」とし、公表はしない。政府からの圧力もあり、「自陣内で錯乱・発砲の結果全員死亡」などと表沙汰にはできない。
ドクター、アレックス・ケルナーの所在を明らかにし、事情を聞くこと。死亡していれば、その事実を確認すること。
アーカムに対するテロ行為も考えられるため、何らかの声明、要求が示される可能性もある。
調査はすべて中止、キャンプは閉鎖するが、あくまで一時的なもので、解明され次第再開する。
「一番怪しいのは例の宗教集団だがな……」
警備について戻ってきたジョーンズが、新しく設営された仮キャンプの中でコーヒーを飲みながらぼやいた。
「だが怪しいってだけじゃ動けねえ。何も証拠はないしな。逆に怪しんでくださいって差し出されてるような感じもあるな」
「もし奴らが……手段はわからないにしても、関わってるとしたら目的はなんだ?」
「……」
ジョーンズがマグを持つ手を空で止めた。
「……ここで何か、『出た』のか」
「オーパーツがか」
「それを奪還しようとして、ここの職員が邪魔だった……?」
「調査はどの段階まで進んでたんだ」
「ありきたりなもんだぜ。目新しいもんは出てきてないはずだ。まだ、な」
「これから出ないとは限らない、もしくはもう出たのに、それが隠蔽されているとしたら?」
「犯人がまたここにやって来る可能性は高い」
「最悪のシナリオは考えておくべきだ。俺たちが錯乱に陥ったら、それこそ地獄だ」
「確かにな……奴らはどんな手を使ったんだ? 普通ありえないだろう、銃の扱い方もろくに知らない奴らがほとんどだったんだぞ。
凶器だって護身用に支給されたものだ。それがあんな……」
ジョーンズはいきおいよくテーブルにマグを置いた。
「ふざけてる。人の命をなんだと思ってやがる」
「まだ相手がわかったわけじゃない」
「ふん、ゲリラだろうが宗教集団だか知らねえが、来るならとっとと来いってんだ。ギタギタにしてやる」
「ジョーンズ」
「御神苗、お前やけに今回は冷静だな。いつもはお前が先頭でぶっ飛んでくくせに」
「……ドクターのことを考えてた」
「ケルナーか?」
「ドクターは……俺がアーカムに入った頃から知ってる。いい先生だった。ずっと俺が一人前になったのを喜んでくれてた。
もう引退してもいいはずなのに、現場が好きだといつも言っていた」
「そのドクターが白か黒か、まだわからないぜ。お前はすぐに人に入れ込むからな……最悪のシナリオというなら、黒だったときのことも考えとけよ」
「わかってる」
「……ならいい。俺は休む。襲撃があるなら、俺は望むところだ。追いかけるべき獲物がわかるからな。こう謎が入り組んでるのは得意じゃねえんだ。
俺たちじゃなく探偵でも呼べってな。敵が何にしろ、俺らはそれを叩くのが仕事だ」
ジョーンズが立ち上がり、テントを出て行く。
優はテーブルに残されたマグカップを、茫洋と見つめた。
ジョーンズの言っていることは正しい。おそらくジャンでもそう言うはずだ。
お前は人に入れ込みすぎる。あとで傷つくのはお前だ、御神苗。
「……わかってる、そんなことは」
最後に言われたのもそれだった。だが、まだ灰色のものを白か黒か推測しても始まらない。ならば俺はドクターを白と信じたい。
まだ死んではいないと信じたい。
が、戦場でそんな甘いことを言っていれば早晩背後から撃たれるだろう。だから最悪のシナリオをいつも考える。
そうしなければ生き残れない。往々にして、起こって欲しくないことほど起きるものなのだ。この世の中は。

 

*

 

厳戒態勢を敷いた調査フィールドは、さながら戦場だった。
一日が経ち、そこかしこにあった死体こそ運び出されたが、依然として血痕が残され、一部瓦礫と化した建物に染み付いていた。
優も交代で哨戒に当たっていた。手が足りないのだ。これが終わったらすぐ調査記録の確認に戻らねばならない。
と、ふと見慣れないものがそこにいることに気付いた。まばらに生えた木陰から、ちらちらとのぞく青いもの。
近づいた優が見つけたのは、小さな子供だった。
「おい、」
声をかけると、覗いていた服の裾がさっと木陰に隠れた。
「何してんだ?」
こわごわと優を伺う目線は優の腰くらいしかない。6歳か、7歳。それくらいの女の子だった。
「この辺は規制がかかってるから、危ないぞ。早くうちに帰りな」
見つかったと観念したのか、少女はそろそろと木の陰から出てきた。白人ではなかった。
ブロンズ色の肌。込み入った刺繍の施された青いワンピース。多分地元民の子供だろうと推察できた。
その少女がまっすぐ優を見上げ、少し目を細めた。まるで珍しい生き物でも見るように。
優にしてみれば少女の方がよほど珍しい生き物だった。インディヘナの小さい子供。
彼女は口を開いて、可憐な声で呟いた。
「あなたが妖精? まるで人間みたい」
そしてにっこり笑った。




ゲリラ兵などには子供の兵士も少なくない。
彼らが分別をつける頃にはもう手遅れなほど「教育」されてしまい、自爆テロの実行者などにも使われることがある。
自分の意思とは関係なく、洗脳されてしまう場合がほとんどだ。
正直、その可能性を考えなかったといえば嘘になる。
しかし、優は彼女の一言で棘を抜かれてしまった。きらきらと輝くような大きな目で、じっと優を見上げる少女はただの子供だった。
「俺は人間だよ。お前とおんなじだ」
少女は相手が喋ったことに驚いたようだった。
優は辺りを警戒したあとで、しゃがみこんで少女の目線と同じ高さになった。
「ほんとう? でも妖精なんでしょう?」
あくまでもそう信じているようだった。妖精? 
「わたし知ってるよ、妖精はそらからおりてくるの。せなかに大きいはねが生えてて、地上のみんなを助けてくれるの。おばあちゃんがいってた。ほんとだよ」
優は苦笑した。一生懸命優にそれを信じさせようとしているのが可愛かった。
「おばあちゃんと住んでるのか?」
「うん。そう。でもね、おばあちゃんの具合がよくないの。昨日から。それでね、ドクターがいるかなって思ってここにきたの」
「ドクター?」
優が真顔で尋ねた。
「そう。いつもね、お願いすると薬をくれたり、注射をうってくれたりするの。それでおばあちゃん、元気になるんだよ」
「ドクターって、ここにいたドクターか? 金髪の、眼鏡をかけた?」
「うん、ドクターはいつでもおいでっていってたの」
ケルナーの行方。彼女が手がかりになるかもしれない。
「ドクターはおばあちゃんの所へよく行ってたのか?」
「いつもみんなといっしょにごはんたべたり、わたしたちと遊んだりしてくれたよ。いつもしろい服着てたけど、なんか汚れてた。でもやさしいよ」
間違いなかった。ケルナーは医者のくせに、自分の身なりにはとんと無頓着だったのだ。
「ドクターは……今はいない」
「いなくなっちゃったの? どこへいったか知ってる?」
「……ごめんな、ドクターは他の場所に行っちまったんだ。きっと別の、誰かをまた助けてるよ。おばあちゃんは病院に連れていかないとな」
少女はがっかりしたようにうつむいた。
「そうなんだ……。わたしもっと遊びたかった。また来てねって、ドクターに言ってよ」
「ああ……伝えるよ」
「ほんと? またきてくれるかなあ?」
「わからない。でも、ドクターはお前たちが大好きだったんだと思う。いつか……また会えるよ」
「よかった。おばあちゃんにはわたしがおいしいお茶をいれてあげるから、だいじょうぶだよね」
「ああ、でも早く病院に行ったほうがいい。ドクターもそう言ってただろ?」
「うん。おばあちゃんはすごい占い師なの。わたしも占い師になりたいけど、お前にはまだ早いって教えてくれないの」
「へえ……占い師って、メキシコじゃ凄い力を持ってるって聞いたことがある」
「ほんとだよ! おばあちゃんは他の人の病気もなおしてあげられるの! でもね、自分のは無理なんだって。へんだよね」
「じゃあ、お前がいい占い師になって、おばあちゃんを治してあげればいい」
「うん!」
「早く帰りな。うちからどれくらい歩いてきたんだ?」
「えっと、たくさん。でも平気だよ。夜でもちゃんと見えるから。おばあちゃんにお茶を買って帰るの」
それから驚いたように少女は声をあげた。
「忘れてた。これ、ドクターが妖精に渡してって言ってたの。おばあちゃんと、わたしも一緒に作ったんだよ!きれいでしょう」
彼女がポケットから取り出したのは、銀色のロケットだった。鎖はなく、代わりに美しく組まれた紐がついていた。
その紐は、彼女の着ているワンピースの刺繍とよく似た模様だった。この紐を編んだのが、彼女と祖母なのだろう。
「ドクターが……? 妖精のことを話してたのか?」
「うん、よくいってたよ。すごくつよくて、きれいな妖精なんだって。だからすぐわかったよ」
それが自分のことなのか、全く別のものなのかはわからなかった。まさか概念上ではなく本当の「妖精」がいると信じていたわけではないだろう。
「俺がもらっていいのか?」
「気に入ってたんだけど、妖精さんにあげる。ドクターがそういってたから」
少女はにこにこしていて、人違いじゃないのかとは言えなかった。ドクター・ケルナーがそういうなら、おそらくそれは自分のことなのかもしれない。
ドクターに会えたら返せばいいのだ。ケルナーが少女と祖母の主治医だったことは間違いないのだから。
少女の手の熱が伝わった銀色の欠片を優は受け取った。
「ありがとう。ほら、危ないからもうこの辺に近寄っちゃ駄目だぞ。まっすぐおばあちゃんのところに帰るんだ」
「うん。わかった」
「お前……名前、なんていうんだ?」
「ニナ。おばあちゃんはルナっていうの」
「俺は妖精じゃなくて、優だ」
少女は優を見つめ、頷いた。
「うん。ばいばい、妖精」
あくまでも彼女の中では優は妖精らしい。苦笑して、手を振った。
「またな」
ドクターの手がかりを追うために、少女をそのまま帰すべきではなかったのかもしれない。
祖母に事情を聞いたほうがいいのかとも。しかし、優がそのロケットを開いて中身を見たときに、その迷いは消えた。
どんな事情があれ、ドクターは白だ。優はそう信じた。

 


*

 


夜更け。
優は最初に渡された報告書をもう一度読み返していた。
ケルナーが何を見、何を考えたのか、想像してみた。
あの少女が言った言葉。
以前は毎日のように一緒にいた。主治医とはそういうものなのだと思っていた。
だがケルナーの面影は遠く、最後に会ったのはいつだったか、もう思い出せなかった。


その時、突然窓の外が明るくなった。
地響きとともに爆発音が聞こえた。方角からすると裏手の警備が最も薄いところだ。
襲撃。瞬間的に装備を掴み、優は扉を蹴り開けた。
「どうした!?」
同じように飛び出してきたジョーンズと合流する。無線が飛び交う。
「北門の方だ。ゲリラ兵が襲撃してきている。応戦してるが、相手がRPGを持ってる。下手すると施設どころか調査対象まで破壊される」
「何が目的だ」
「おそらく、この遺跡からの撤退を要求してくるはずだ。ここを持っていかれるのはまずい。行くぞ」
RPGだと? どこからそんなものを。おそらく「黒い葦」には裏から資金提供をしている組織がある。
一宗教集団だというのはただの煙幕だ。だが誰が? 何の目的で?
無言の了解で優がポイントマンになり、ジョーンズが火力支援する。
敵の数は不明だが、おそらく10人はいないだろう。不意を打たれたことでやや浮き足立っているが、今いる部隊で対抗できない数ではないはずだ。
RPGの破壊力は高いが、射手の位置が一番わかりやすい。大きなバックファイアが上がり、相手に自分の位置を教えてしまう。
普通なら一度撃ったらすぐに場所を移動し、とにかく逃げ回らなければならない諸刃の剣だ。
だが、その射手はまったく動かなかった。次々にロケット弾を撃ち込み、施設を更地にしようとしているかのようだった。
優が近づき、最初にその射手を倒した。
まるで殺してくれと言っているようなものだ。
ロケット弾の雨が止むと、同時に他の銃声までも止んだ。
何かくる。
それが合図だったように、ゲリラ兵たちは撤退を始めた。まだ目的は果たしておらず、決定的に不利になったわけでもない。別の狙いがある。
一人の兵士が、逃走を始める味方とは逆の方向へ走り出した。優たちのいる方向へ。手には何も持っていない。
手ぶら? 戦場で? 何のために? 考えるまでもなかった。
咄嗟に優は叫んだ。
「自爆する気だ!!」
声を上げた優を、兵士の目が捕らえた。
走りながら、一瞬だけ二人は見つめあい、瞬きする前に優はH&Kで相手の額を撃ち抜いていた。
ほとんど自動的な動きだった。思考よりも早く、するべきことを脊髄がした。
この距離で外すことはありえない。それくらいの距離だった。
おそらく起爆装置を握るために、懐に入れた手もそのままで、兵士の目から光が消えた。
起爆はしなかった。間一髪だった。
この至近距離で自爆されていたら、あと一瞬だけ、彼が走り出すタイミングが遅かったら、死体になっているのは自分たちだった。
この自爆テロを起こすためだけに今の部隊が送り込まれたのだ。
兵士はまだ若く、少年と言ってもいいような年齢に見えた。

ああ、あの眼。
あれは知っている。
酷く自分と近しいものに思えた。
少年の額から流れ続ける血溜まりの中で、優は醒めたように立ち尽くした。


爆発物処理。またしても増えた死体と埋葬、周辺哨戒とデブリーフィング。
ほとんど機械的にそのすべてをルーチンとして処理した。
自爆を仕掛けた少年兵は、推定16歳。インディヘナの少年だった。

 


48時間近く動き続けた体は疲弊していた。
優だけではなくすべてが混乱し、混線しているようだった。
交代で休憩を取り、状況を整理することに追われた。
前に眠ったのが酷く遠い出来事のようだった。不眠不休での活動は訓練を受けているし、初めてでもない。
もっと長かったこともざらだ。
だが眠りたくない、と思った。心の底から。眠らなければ、夢を見ることもない。
しかし泥のような疲労は足元から這い上がり、それに優は簡単に捕まった。
ラグに包まるだけの行為に酷く時間がかかった。
たった2日。人間の活動限界なんてあっという間だ。
でも眠りたくないんだ。なあ、ジャン。
どうしてお前が今ここにいないのかわからない。
俺が呼んだらそこにいろよ。我侭なんかじゃなくて、腹が減ったら食うみたいに、当たり前の欲求。
親鳥を呼ぶ雛みたいに。
条件反射に慣らされすぎて、そうじゃない状況が想定できないなんて。
酷い話だ。

ジャンの馬鹿野郎。

これが依存という症状ならば、俺は相当重症だ、と優は思った。
願わくば、せめて共依存ならいい。俺だけだなんて不公平すぎる。
それからまるであらかじめ決定されている映画のプログラムのように、夢を見た。
ああこれは見るな、と思ったとおりの夢だった。
その夢の中で、優はあの兵士であり、あの兵士は優だった。
有り得た可能性のうちのひとつだった。そしてそれは、過去の可能性ではなく、現在進行形の可能性なのだった。
優は映画館の中で一人スクリーンを眺めている。
そこで優は主演であり、かつ観客だった。
やがて映画の幕が上がった。



 

*



 


初めて人を殺したときのことを覚えている。
その頃、俺は未だ人になれていなかった。
どちらかといえば獣に近く、動くものを見れば殺せと命じられていた、それに疑問を持つこともなく諾うだけの、そういう生き物だった。
ほかのことは殆ど忘却の海に流れて消えてしまっているのに、その感触だけは忘れていない。
人になりたいと思ったことはなかった。なぜなら、自分が人でないものだと自覚してはいなかったから。
人というものがどういうものなのか、自分とどう違うのか、それすらもわからなかった。
自分でないものは敵だった。だから殺していい。そうしなければ自分の生存が危うい。だから殺される前に殺す。
単純明快な原理に基づいた、一匹の獣だった。
獣は自己を省みることなどない。昨日と明日の違いも知らず、ただ今日を生き延びるだけだった。

人間の魂は、ひどく脆い器に封じられている。それを絶つのは、コツさえ掴めば恐ろしく簡単なことだった。
それが重火器を纏う傭兵だろうが、顔を泥で隠したゲリラ兵だろうが同じことだ。
獣にも初陣の日がある。久しぶりに見た太陽の光が目を射た。
この日のために育成されてきた俺達は、何者かの手によって選りすぐられ、ついてこられない個体は淘汰された。
彼等には名前すらない。だから墓碑もない。お互いに呼び合うこともないから、消えた個体は記憶にも残らない。
許された固有名詞は、ナンバリングされた番号だけだった。
切れ切れの記憶。ぼろきれのようなそれを集めると、そこには目に意志を持たない兵士たちがいる。
号令と共に俺達は戦場に散開した。
最初は劣勢だった。当初配置されていた兵士たちはあらかた倒され、至るところにその骸を虚しく晒していた。
緩衝地帯の制圧。それが俺達に与えられた最初の任務だった。ここを奪われることを許してはならない。
だがすでに砦としていた小屋は、ゲリラ兵に占拠されていた。
相手の火力と兵力は、俺達とは比べ物にならない程小さいが、地の利が盾となりその差を埋めていた。
しかし俺達はほぼ視線のみで概ね意思のやりとりができた。
目標の小屋は崖を背後にしており、正面から来る敵だけに注意していればいい。俺達はその裏をかいた。崖の上に位置取り、上から急襲する。
誰かが俺の横を滑り降りていく。殺戮が始まる。俺達は本能のまま、ただそこにある命を奪うだけだった。
哨戒が最初の異変に気付いた。
味方にその在り処を知らせる声は、悲鳴にすらならずに消えた。先陣が哨戒を最初に叩く。
さすがに真昼の強襲は予想していなかったらしく、そこここで短い断末魔が聞こえ始めた。
俺は先陣の中でも先を切って突入した。その部屋に誰もいないことを確認し、天井の梁に身を潜める。
外では銃撃戦が始まっていた。慌しく足音を響かせて指導部の人間が駆け込んでくる。
怒号と悲鳴が入り混じった音。呪詛の呟き。軽々しいほどの銃声の羅列。
それらを背景とし、足音は4人。ドアが開き、全員が室内に入った瞬間身を躍らせた。
重力に逆らわず落下、ナイフを抜き放ちそのまま沈ませた。
狙いは過たず相手の頚動脈を絶ち、刃はそのまま鎖骨付近まで喰い込んだ。
それを引き抜く愚は冒さず、飛び降りざまに背後の敵の手元を蹴りつける。
怯んだ一瞬を逃さず至近距離から9mm弾を撃ち込んだ。これで二人。
コンマ何秒の間にそれをやってのけ、相手が取り落とした小銃を手の届かぬところへ蹴り飛ばす。
残りの二人は上から降ってきた、それも子供であることに一瞬戸惑う。
しかしすぐに手に持った得物を構え、俺目掛けて撃ってきた。俺は身を伏せ、思考するよりも早く反撃に出た。
室内で、しかも至近距離で撃ち合うのは自殺行為だ。
間合いを一気に詰め、踝に提げたナイフを一閃した。この間合いでとっさに小銃は撃てない。
あっけなく相手は崩れ落ちようとする、その体を盾に、もう一人に接近し押しつぶすようにのしかかった。
射線に対して垂直に死んだ兵士の体を立て、その体越しに弾をあるだけ撃ち込んだ。
ガチリ、と撃鉄が空を噛んだと思った瞬間、最後の敵がその動きを止めた。重なるようにして、二人は死んでいた。
外からの銃声もやがて聞こえなくなり、制圧は完了したようだった。
たった数分間で、その小屋はモルグと化した。
恐怖も感慨も安堵もなく、俺達は初陣を終えた。
ただ、掌に肉を裂き貫いた感触だけが残って、それもやがて消えた。
外は相変わらず鳥が啼き、青が空を覆っていた。未だ太陽はほぼ真上にあり、俺達獣と、積み重なる死体を照らしていた。
産声すらなく、世界に俺達が出現した瞬間だった。
最初に喉を貫いた兵士の、見開いたままの瞳に、世界が映っていた。
その色を、まだ覚えている。

そこには全てがあり、そして同時に何もかもが奪われている。
全てのものがやがてその闇に帰っていく。
そういう場所を、俺は知っている。
何も揺らがず、何も感じない閉じた世界。

あそこにはもう、戻りたくないんだ。

 

「優、起きろ」
揺すられて、声をかけられた瞬間跳ね起きた。
反射的に傍に置いていたアサルトライフルの安全装置を外しかけて、そのまま下に下ろした。
足音にも気付けないほど、疲れきっていた。手足が泥の塊のようだった。
「……どうした」
「悪い知らせだ。……ジャンがいなくなった」

 


































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