花火とラムジェットエンジン

 

 

「早く!こっち、ジャン」
夕暮れの光が薄れ、紺色の空にぼんやりオレンジ色が残っている。
空気がざわざわしているのがわかる。
川べりは草いきれと夜の匂いがした。

俺は御神苗の後について、人の流れに逆らっていた。
「おい、ちょっと待てよ…」

そのとき俺にしては珍しく、時差ボケにかかっていた。
エクアドルから戻った直後で、上手く「夕方」に馴染めない。
けれどもフランス/日本間で時差ボケにかかった記憶がないというのは現金な話だった。

時々、体と精神のメンテがどうしても必要になる。
勿論贅沢な話なのはわかっているが、常時スーパーマンではいられないのが実情だ。仕方がない。
そしてそれを理由にわざわざ日本へ戻ってきたのだ。フランスならもっと時差が少なくて済んだ。
いや、違うな、と俺は思う。
時差ボケと言うよりは、ホームシック、と言った方が、俺の病巣をより的確に表しているかもしれなかった。

浴衣を着た女の子たちが、楽しげに笑いながらすれ違う。
疑問に思って聞く。
「会場、あっちじゃねーの?」
だが御神苗は「いいんだ」と言う。
どうやら任せるしかないらしい。

川辺で開かれる花火大会は、俺の予想を超えた盛況ぶりだった。
どこから沸いて来るんだ、というほどの観客が、所狭しと土手に陣取っている。
その数はどんどん増えて行くようだった。

人込みの間をすりぬけながら、ちらりと御神苗が振り返る。
群衆の中で頭一つ飛び出ている俺を見失うこともないだろうに、一瞬だけ迷子の子供みたいな顔をする。
それでうっかり手を伸ばしてしまう。

御神苗の手は熱くて、体は暑さにげんなりしている癖に、その熱が心地よかった。
振りほどかれるかと思ったのに、その手は俺の掌に収まったまま、御神苗はまた歩き出す。
奇異な目で見られるかと思いきや、上手い具合に一発目の朱い花火が空に散った。
群衆の歓声が上がる。空気を揺らす爆発音の余韻。
誰もが夢中になって空を見上げている。

それを横目で見ながら、手を引かれるまま御神苗の後をついていった。

たかが手を繋いだ位のことで、際限ない庇護欲がある程度叶えられている自分の単純さが、かなり笑える。
この庇護欲というのは厄介だ。
多分、御神苗と付き合い出したころからずっと、俺はこのわけのわからない欲に振り回されている。
守ってやりたいという、陳腐な欲望。そんなこと、今まで付き合ってきた女にあまり感じたことはない。
そんなものを必要としないくらい、強い女が多かったからだろう。
そして、相手の弱さを理解できるまでの時間を、共に過ごすこともなかった。

どうして御神苗に対してそのスイッチが入ったんだろう?
普通に考えれば、こいつは幼い頃から一人で生きてきたのだ。
俺と同じで、自分の利益を奪う存在は排除するのが習性になっている。
自分が大事に思うものや、失いたくないものを脅かす存在に、ずっと立ち向かってきた。
本来当たり前に与えられるべきものを、戦って勝ち取らなければ得られなかった。
だが、そのことに対して同情だとか、哀れみは必要ない。
俺がもしそんなものを与えられたとしたら、唾を吐いて拒むだろうからだ。
御神苗は強い。それは誰もが認める所だ。
いつも一人で立っている。
そんな奴に、どうして俺はそんなことを思っているんだ?


そして、あいつがそれを拒まない理由が知りたい。


「やっべぇ、間に合わねー!急げ、ジャン!」
「あぁ?」

御神苗が走り出す。眠い頭でぼうっと考えていたから、咄嗟に御神苗と繋いでいた手がするりと離れた。
「おい…待てって」
慌ててもう一度手を伸ばして捕まえる。

御神苗がちらっとこっちを見て、少しだけ笑った。
何だその顔は。往来で引き倒してやろうかと思った。
クソガキめ。

頭がうまく動かなくて、全然関係ないことがふと浮かぶ。
パリとアジアを、音速で飛ぶ旅客機の構想があるらしい。構想に終わるだろうが、もし実現すれば、随分話が早くなる。
ラムジェットエンジンで恋人に会いに行くってのは、馬鹿馬鹿しくもロマンチックだ。
音速で飛ぶ飛行機の中から、花火ってのはどんな風に見えるんだろう、と俺は考えて、それから御神苗の後を追った。

どうやら人のいない特等席で、ゆっくり花火を見たいらしい。
俺は別にどこだって良いんだけど、とは何となく言えない。
人気のない小さな神社の鳥居を潜り、止める間もなくするすると木をつたって神社の大屋根に上ってしまうのを、ぽかんと見ていた。

「お前……いいのか、ここ。神社だぞ」
「大丈夫。ちょっとだけだから」
ほらこっち。と手招くのを、仕方ねえなといいつつ便乗する。
景色が一変した。
「おお。すげえ、よく見える」
「だろー?」
自慢げに胸を張るが、やっていることは小学生並だ。
フランス人にもバチは当たるのだろうか。
大屋根の上に寝転がり、花火を眺め、ビールを買ってこなかったのを悔やんだ。
「時差ボケは直ったか?」
んん、あー、と怪しげな返事をする。どっちだよ、と御神苗は頬杖をついたまま空を見上げた。
「なあ、俺帰りたくなってきた」
「ええ? なんでだよ。眠いのか?」
「違う。神様が見たら怒られるようなことしたくなってきたから」
それから並んだまま、キスして、ああやべえ、早く帰りたい、と思って顔を離した。

驚くほど大きな花火が背後で上がったが、俺は全然そっちを見ちゃいなかった。

帰り際、御神苗が全然口をきいてくれなかったのは、ここだけの話。

 

 

 

 

 

 

end







20110710