flooting summer(或いは錠剤D)



 

低気圧が近づいている。重く低く雲が垂れ込め、多分じきに嵐が来るだろう。
まだ夕方前だというのに外は真っ暗だ。
俺が黙り込んで窓の外を眺めていたら、後ろから額に手が回った。
大きな掌は俺の瞼まで覆い隠す。
熱はないな、と彼が言う。
首を反らせて後ろを見る。どうして、と目で聞いた。
低気圧が来ると頭痛がするんだろ。知ってるよ。
うるさいな、とまだ額に触れたままの手を押しやった。
本当は触っていて欲しい。
けどそんなことを言うわけにはいかない。どうしても。
認めたら負けだからだ。何に、かはわからないけれど。

タン、と音がしたので外を再び見ると、雨粒が硝子にぶつかった音だった。まばらな雨粒が、すぐに濁流と化した。
稲光が暗い部屋の中を時折照らす。光だけがフラッシュのように瞬き、サイレントのように音はしない。
まだ雷雲が遠いのだろう。きっとそれもすぐに来る。
部屋が暗いのをいいことに、じっと稲妻を見つめる。一瞬で消える花火みたいだ。俄かに遅れて落雷の音。
空は紫がかった濃い灰色で、その合間を貫いて、白い閃光が天を割る。
綺麗だった。

なかなか電気がつかないのを不思議に思った。
夕食の準備を始めていたが、諦めてリビングに戻ってきた彼が言うことにはどうやらさっきの落雷で停電したらしい。
餌はお預けだ、と不満そうに呟いている。
時計はまだ3時半を指している。そんなに早くから準備して、一体どんなフルコースを作る気なんだろう。
夜には戻るだろ、と答える。別に戻らなくたって構わない。まだ稲妻を見ていたかった。

彼がじっと俺の顔を見た。何かと思って見返す。
ふいと視線をそらし、キッチンに行きまたすぐに戻ってくる。手にはビールの小瓶。
昼間から飲むのかよ、と思ったが黙っている。口を開くのが億劫だった。
俺が座っている窓際のソファに、どかっと腰を下ろす。スプリングが弾んで、彼の方に沈んだ。
肌寒かったから、さっきベッドから持ってきたブランケットがばさりと落ちた。それを拾おうと屈みこんだら、腕を取られた。
顔を上げると金色の髪が降ってきて、視界を遮った。

このままだと飛行機が飛ばない、と呟いた。
もう帰る算段してんのかよ。明日だろ。
だから、キャンセルしといてよかったなと思って。
お互いの睫毛が触れ合うような距離で、普通に喋るとすごくくすぐったかった。
口開けろ、と彼が言う。すんなり従うと、何か白い錠剤を放り込まれた。
何、と問う間もなくビールを口移しで注がれた。
止めろと言おうとして、口の端から液体がこぼれた。弾みで飲み込んでしまった。
クスリとアルコールはダメだろ…。
ちょっとなら平気だって。
ていうか、何飲ませた。
飛ぶ薬。

にやっと笑った顔が、本当に腹が立つほど好きだと思った。
お前なんか大嫌いだ。顎を伝う滴を拳で拭った。

閃く稲光が部屋を照らして、すぐに消える。暗くて顔がよく見えない。
ブランケットを頭からかぶって、昼日中からこんなことをしている。けれど暗いせいで罪悪感があまり無い。

停電が、しばらく続けばいいと思った。

外では恐ろしい音を立てて風が荒れ狂っている。窓1枚を隔てて、部屋の中は冷たく静かだった。
二人の息遣い以外は。


どうしてこんなことをするようになってしまったんだっけ。
出会ったのが思い出せないほど遠い昔のことに思える。
確か俺たちはすごくいがみ合っていて、お互いがとても邪魔だった。どうしてこんな奴が、と二人で同じことを思っていたらしい。
変われば変わるものだ。あの夜の底から、随分遠くまで。
時間は留まらず、俺はあの頃とは違うし、これからも変わっていくのだろう。
そしてふと立ち止まって、その道程に何かを思うだろう。それが何であれ、後悔だけはしないだろう。
戻れたらいいとは思わないだろう。
今も思っていないように。
仮に戻れたとして、多分俺たちはまた同じことを繰り返すだろうことも。
だから仮定に意味はないのだ。他の全ての歴史と同じように。

嵐が来る前の、バカみたいに晴れ渡った青空を思い浮かべた。
夏が来るのだ。嵐が過ぎたら、多分もうそこは夏になっているはずだ。
大きな積乱雲と、沁みるようなブルースカイ。吸い込まれそうなターコイズ。夕暮れのインディゴ。

気付いたら雨は小止みになり、雷鳴もしなくなっていた。知らないうちに夜が来ていた。
彼がジーンズだけ着けた格好で、腹が減ったと呟いた。
もう停電は復帰したのだろうか。
随分酷い頭痛がしていたのに、嵐とともにそれがすっかり消えている。

ふと足元を見ると、錠剤のアルミパッケージが落ちている。拾い上げると、頭痛薬の名前が青い字で印刷されていた。
そうならそう言え、と何だか腹が立ち、奴を見ると、
「飛べただろ?」
とウィンクしてきやがった。

その後食べたデリバリのピザは全部、俺の好きなトッピングにしてやった。
嘘吐きにマルゲリータを食べる資格はないのだ。

















end






20110710