デートコースジャンクションB

 

 

 

 

 

 

 

 

雷撃みたいだった。触ったら感電しそうなくらい。実際ちょっとくらい火花が出ていてもおかしくなかった。
ジャンは自分の手を少しだけ見る。どこか焦げていないか確かめるように。
でも勿論そんな跡はない。当たり前だ。
開いたままのドアが揺れている。キイ、キイ、と油の足りない蝶番が弱い鳴き声を上げる。
「……クソが!」
勢いのままにドアを蹴り飛ばした。酷い音を立ててドアが閉まる。
罵ったのは無論自分のことだ。
やりすぎた。ちょっとだけだと悪戯心が出たのが悪かった。
……多分、浮かれていたのだ。
あんなに過剰反応を起こすとは思わなかった。
ジャンは窓の外を見た。夕暮れが迫っている。すぐに辺りは真っ暗になる。
ここ一帯はお世辞にも治安がいいとは言えない。だからこそここにいるわけだが。治安のいい住宅街は落ち着かないし、性に合わない。でも今ばかりはそれすら舌打ちの理由になった。
身の危険があるとは思わない。多少腕に覚えのある程度の悪党が相手なら、ダース単位だろうと素手で片付けるとはわかっている。小娘でもあるまいし、どうせ腹が減ったら戻ってくるに決まってる。
そんなことわかってる。
なのにどうしてこんなに俺は焦っているんだろうと思った。







 

ジャンの部屋を飛び出して、数分立たないうちに後悔した。同じような石畳、同じような古ぼけた街並み。路地は錯綜していて、一つ曲がるともう見分けがつかない。迷路みたいだ。きっと100年前からそこに変わらずあるのだろうアーチをくぐり、白茶けた建物群の中で途方に暮れる。
せめて見晴らしのいいところに出られればな、と思う。住宅街とはいえ、あまり行き交う人もいない。
まだ空は明るいが、じきに日が落ちる。そうなったら今よりもっと迷うだろう。
大体の方角はわかる。でもこれだという確信が持てない。それは多分、戻ろうという明確な意思よりも、どこかへ行ってしまいたいという気持ちのほうが勝っているからだ。帰りたくない。まだ。
せっかく暇を見つけてここまでやってきたのに、こんな喧嘩なんかして、最悪だ。もっと楽しく過ごすはずだったのに、ジャンのバカ。

うろうろ歩いていると、やがて小さい広場に出た。涸れた噴水と、陶製のベンチ。おそらく随分前は賑わっていたのだろう、閉店したカフェの跡がある。そこのベンチに座って、ぼんやりしていた。
何やってんのかなあ、俺。
時計を見る。午後3時を回っている。本当に手ぶらで来たから、帰ろうと思えば今からでも帰れる。
大通りへ出て、タクシーを捕まえて、空港まで。
それは来た道を戻ってあの部屋へ帰るより、随分簡単なことのような気がした。
何も言わずに、帰ることは出来る。
……本当にどうしよう?
空を見上げて途方に暮れた。
広場に繋がる路地を、大きな荷物を持って歩いていく人がいる。
真っ赤な髪。荷物の間から、それがちらりと見えた。女性だ。
「あれ、」
向こうも同時に気が付いた。ベンチへ近づいてくる。
間違いない。最初にここへ来て迷っていたとき、ジャンの家まで案内してくれた美人だ。
確か、ジャンはアデラと呼んでいた気がする。
「あんた、昨日の……」
どうも、と軽く会釈する。
「どうした、追い出されたのかい?」
首を振る。
違う。飛び出てきた。どこに行くかなんて考えてなかった。アデラは小さく溜息をついて、少しだけ笑った。
「喧嘩でもしたのか?」
うん、と頷いた。受け答えがまるで子供だ。なんとなく、この女性には人をそうさせてしまう雰囲気がある。
「あんた暇なら手伝ってよ。今日来るはずのミシェルがサボりやがって、手が足りない」
ええと。固まっていると、なにぐずぐずしてんだ、と大きな紙袋を持った指先がひらりと動いた。
あ、持てばいいのか。
見た目よりもずっしりとした買い物袋は、合計三つ。それを重そうにも見せずに歩いていた。
ちらりと俺がアデラの顔を見ると、悪戯を見つけたみたいな顔で、にやっと笑った。
「一応女の細腕だからね。店までよろしく」
無論、異存などない。むしろやることがあって安堵してしまう。
しかしどうもこっちへ来てからというもの調子が出ない。
ジャンは日本であんなに気楽そうなのに。なんか不公平だ。
喧嘩なんかしなきゃよかった、と思ったが、いやと首を振る。あの一言は、何故か許せなかった。いつもみたいに冗談で流せたらよかったのに、あれだけはダメだった。
アデラの後について、荷物を運ぶ。迷路のような路地を、何の苦もなくすいすいとすり抜けて目的地にたどり着く。
「ここがあたしの店」
アデラは酒場の女主人なのだった。入り口から店内へ入ると、薄暗くて暗順応に時間がかかった。こじんまりした店内は、カウンターといくつかのテーブル。古い店だった。カウンターになっている分厚い樫材は、磨きこまれて飴色に光っている。
「何ぼさっとしてんの。これ剥いて」
どかっと玉葱の大量に入ったカゴを押し付けられる。一体いくつあるんだろう。
「時間がないから急いで。あとで裏に業者が来るから、搬入と仕分けして。それまでに終わらせて」
厳しい。すごく厳しい。玉葱と戦いながら、俺はなんでこんなに必死に働いてるんだろうと思ったが、我に返っている時間が無かった。
「あんたんとこの、あいつね、だいぶうちのツケ溜めてんの。だから文句言わないで働いて」
にっこり微笑まれて、俺は完全に白旗を揚げる。この人に逆らったら厄介なことになる。ここは一つ、勤労高校生の底意地を見せるしかない。あいつのツケのためというのも業腹だったが、アデラは戦場の指揮官のように次々と的確な指示を出してくるので、俺もそれに応えるのに必死になった。
汚れるからこれ着な、と言われてつけたギャルソンエプロン。ひらひらして邪魔じゃないかと思ったら、意外にそんなことはない。
いろんな雑用に手を動かしながら、ぽつりぽつりとアデラのことを聞く。
アデラの本名は不詳だ。多分アデリーン、なんだろう。でもわかっているのは「アデラ」という愛称だけ。
年齢は聞けないが、30代前半くらいにしか見えない。暗いところだったら20代だって言っても平気だろう。
髪は燃えるような赤。腰くらいまである。着てる服の布地は少ない。結婚歴数回。今までの旦那はみんな死んだよって簡単に言う。アデラと結婚すると命を奪われるみたいな風聞が起こるくらいなんだって。
あたしは毒の林檎だからねって自分で言うのが、びっくりするほど決まっててかっこいい。
というわけで現在は独身であるらしい。
賭けの胴元とかいろいろしながら、今はこの店のオーナーをしている。ここはもともとは3番目の旦那さんがやっていた店らしい。若い子は雇ってるけど、接待用のお店じゃない。地元の人たちのためのバー。いろんなことの世話役をしている。裏の権力がすごそうだった。
アデラはジャンのことを弟か下っ端みたいに思っていて、結構よくしてくれるみたいだ。けどジャンはすぐ反発する。でもアデラから見たら、あいつもただの駄々っ子にすぎないのだ。
やがて店が開く。もうすっかり日は暮れていて、そこかしこにオレンジ色の街灯が灯っている。もうじき冬が来るのが肌でわかる。短い秋を楽しむべく、まだ軽装の客たちが次々にやってくる。
結局バイトのミシェルは風邪を引いてお休みだという。そのまま俺が店に立つ。こんなことをするとは思っていなかった。ぎこちないフランス語を必死で操るが、アデラは英語交じりで話してくれるからすごく楽だった。
これ、不法就労なのかなあ。と言ったら、あんたにバイト代は払わないからオッケーだよってアデラが言った。そうだ、もともとツケのために働いていたんだった。
そのとき突然ドアが乱暴に開いた。
乱れた金髪が散って、何の出入りかと思った。
「見つけた……」
なんだか息を切らしている。探しに来たんだ。
「旦那登場」
それを見てアデラが呟いた。
俺はなんだか本当にジャンから逃げてきた女房みたいな気分になって、思わず吹き出した。アデラって本当に変な人だ。ジャンと俺のことは一言も言っていないのに、物凄く的確なことを言う。バレているから隠す必要もなくて、ただ普通に面白いだけだった。




来る客足も落ち着いて、もうあたし一人で平気だよってアデラが言った。お腹すいただろ? 好きなもの言いな。何でも出てくるから。そう言って厨房を指差す。奥には何も喋らない老境のコックが一人いる。喋らない代わりにあいつは三ツ星レストランから流れてきたんだって、秘密をそっとアデラが言う。
ジャンと並んでカウンターに座る。
「お前……ここにいるなら一言言えよ。そっこら中探し回っただろうが」
「……探したんだ」
「当たり前だ」
「心配した?」
「……しないわけあるか」
物凄い仏頂面で言うから、俺は笑った。
じゃあもういいよって言うのは簡単だった。いつの間にか簡単なことになっていた。これもアデラの魔法かもしれない。
「心配して損した……」
「なんで、」
「すっげえうろうろしてたらお前みたいなのここで見たって聞いて、走ってきたらお前そんなエプロンつけてバイトしてるし」
「ああ、これ借りた」
「俺より馴染んでるし」
「俺、ここの臨時バイトに就任したから。お前が失業したら俺が養ってやるよ」
「いらねえ!」
「つうかお前のツケ払うために働いてたんだけど、俺」
「……ええ……」
ジャンが恨めしげにアデラを見る。アデラはそ知らぬふりでカクテルを作っている。
「お前どんだけ溜めてたの?」
「全然溜めてねえよ! 先週負けた賭け代だけだって。アデラ……お前そんなんでこいつ一日使いやがったの
かよ」
「やかましいね。そもそも誰が悪いんだい」
どうやら俺は数ユーロで身売りしたらしい。でもこのオニオンスープ一杯で、一日分の労働が補われて有り余る
くらいだと思った。それくらいそのスープは感動的に美味しかった。




その後ダーツ戦をして、俺が勝った。負けたジャンはテキーラショットガンの刑で、やや潰れ気味。
アデラの側で、ホットチョコレートを作ってもらった。
もう客はほとんどいない。午前2時の閉店まで、あと少し。
アデラは呟く。静かな声で。
ずっと同じ店にいて、ずっと同じことをやっていると、その枠の中にいる人だけがくるくると入れ替わっていく。
「みんな先に行く。それをあたしは見守ってるだけだよ」
そう言って笑うアデラはすげえ綺麗だと思った。
ジャンの話も少しだけ聞いた。
あの子は難しいけど、悪い奴じゃないのは知ってる。頭悪いけど。そこでふたりで笑う。
アデラが言う。
あんたを見たときね、ああこの子かって思ったよ。あいつ、バカだけどそういう嗅覚は備わってんだ。そういうとこだけは絶対間違えない。不思議だったんだよ、このバカはずっと誰かにイカレてるみたいだけど、一体どこにこいつを骨抜きにするような子がいるんだろうってね。どんな絶世の美少女かと思ってた。けどあんたを見たら納得したよ。
ははは、と笑うアデラは本当に魔女みたいだった。俺は一人本物を知っているからわかる。
ジャンからのチクりによれば、アデラの年齢はもう40をこえた辺りだという。
絶対にそんな年には見えない。女って怖い。
「あいつ、バカだけど大事にしてやってよ。あんたくらい強いのじゃなきゃこいつは駄目だ」
そんなことを言われてどうしていいかわからない。へどもどしながら頷く。
「可愛いな。こんなバカにはもったいない」
「……さっきから聞いてりゃ誰がバカだ、この年増」
ジャンが寝ていたソファから起き上がって、恨みがましくアデラを睨んだ。
「あら聞いてたのかい。あんた以外に誰がいるんだよこの駄犬」
飄々と言い返すアデラ。役者が何枚か違う。
「てめえ……ほんとにキレんぞ……」
「しっかり番犬やんないと、すぐ攫われちまうよ。こういう上玉はね」
「わかってんだっつうの、横から口出すな。あと口説くな」
「ああ、バレた? 可愛いからさあ。あんたもっとこの子連れてきてよ、何で隠すの?」
「……お前みたいな魔女がうようよいるからだよ。危なくてしょうがねえ」
「それは光栄」
アデラが目の覚めるような流し目で、小さくウィンクした。俺に向かって。


絶対連れてこねえ、と息巻くジャンを尻目に、俺は座っていたスツールから降りて、アデラの手を取る。
骨張った、細い手だった。こんなに荒々しいくせに、綺麗にコーティングされた臙脂の爪が可憐で、ああ魔女の手だと思った。
魔女はきっと世界中にいて、こうして酒場の片隅や、執務室や、雑踏に遍在しながら誰かを見守っているのだ。
なんか、すごい。自分みたいな若造にはわからない大きなシステムが、今もちゃんと稼動していること。
感謝なのか感動なのか、よくわからない気持ちが湧いて、俺はその手にキスした。
ハロウィンはもうとっくに終わったのに、魔女の仕事はこれからも続くのだ。ずっと誰かを、みんなを、見守りながら。
アデラは俺を見てにやりと笑って、それから頬にキスを返した。
魔女にキスされた。だからこれはきっと守護のしるしなんだろう。
「てめ…何して…っ!」
ジャンが一人騒いで、あんたもキスして欲しいか、とアデラに言われて引き下がった。
猛犬も魔女のキスは怖いらしかった。
今日は奢りだ、というので二人で店を出ようとしたら、ジャンだけ掴まった。
「あんたは今日何もしてないじゃないか。奢りでいいのはこの子だけだよ。ちゃんと払っていきな」
結局、ジャンのツケはチャラになったが、今日のは別ということらしい。
「髪結いの亭主」
「うるっせえ!!!」
笑いながら店を出た。アデラが軽く手を振る。カロンカロン、とドアベルが軽やかに鳴った。




帰り道、暗いのをいいことにジャンと手をつないで帰った。
なるほど治安がよすぎたらこういうのはできないわけだ。
「まだ怒ってんのか、」
ジャンが言う。
「怒ってねえよ。もう忘れた」
もう何に怒っていたのか忘れてしまった。
それに、怒ってたら手なんかつながない。
「……あいつにはもう近寄るなよ! 本気で危ねえからな!」
犬歯を剥いて唸るのがおかしかった。そんなに心配しなくても、もっと怖い魔女だっているわけだし。
「でも俺は好きだな、」
だって強くて綺麗だ。綺麗なものはみんなが愛する。俺に限らず、本当はジャンだって知っている。
「……お前はそう言うだろうと思った……」
「そうか?」
そんなに拗ねんな、と言うと、勝手にキスなんかされやがってと返ってくる。
全く狭量な恋人だ。そもそもこうなったのは誰のせいだ。
立ち止まって、ちょっとだけ先を行くジャンの手を引いた。
ちょっと待って、そんなに急がなくていい。
俺の貰った魔女のキス、お前にもお裾分けしてやるよ。
爪先立ちして、少し振り向かせて、暗がりでキスした。



お前にいつも魔女の加護がありますように。
そして俺にも。



地球の裏側で見る月は、少し煙ったチーズ色をしていた。

 







END




20111106