cat fight2(或いは錠剤E)


ある瞬間に対して、留まれ、お前はいかにも美しい、といったら、
もう君は私を縛り上げてもよい、もう私はよろこんで滅びよう。


「何読んでんだ?」
「ファウスト」
「ゲーテの?」
「そう。これって第一部だけ読んだら仕事はできるけどものすごくダメな悪魔憑きの男にかわいそうな女の子が誑かされて破滅するだけの話だな」
「なにそれ。最後どうなんの」
「悪魔のメフィストフェレスと契約したファウストは、百歳をこえてもユートピアの建設を目指してそれをやり遂げ、祝福されて天の国へ召される。
結局メフィストフェレスはファウストの魂を奪えない」
「そうなんだ? 結末知らなかった」
「そうらしい。俺も最後まで読める気はしない」
「長いよな」
「しかも風刺の描写が全然わからん。全部あてこすりとか、意味があるらしいけど」
「ダンテの神曲とか、失楽園とかってみんな知ってるけど読んでないよな」
「めんどくせえよな」
「で、お前は何でそれ読んでんの」
「暇だから」
「ゲーテもそんな理由で読まれたくないだろうな」
「知らんが、まあそうだろうな」

留まれ、お前はいかにも美しい。

その気持ちはわからないでもない。きっとそういう瞬間のために人は生きているんだろう。引き換えに魂を奪われたとしても。

そんなことを考えていたら、何故か御神苗の機嫌が斜めになったらしい。
どうした、と聞くが、応えはない。
何かしたっけ? と思うがわからない。
触ろうとすると手を払われる。が、そんなことでめげると思うか、バカめ。
本を持っていない方の手で首を押さえ、掴まえる。
「なんなんだよ」と聞くと、
「なんでもねえよ」拗ねたような口調で言う。それでわかった。
「俺といるのに本とか読んでんじゃねえよ、とかそういうことだろ」
「ちげーよ、図に乗るな」
「大体お前がいきなり爆睡し出すから悪いんだろうが。俺はその間ずっと暇だったんだぞ」
「だから違うって……」
「わかった、別にファウストのおっさんにそこまで義理はない。やめる」
「話聞けよ」
「聞かなくてもわかる。で?」
「で、って?」
文庫本を放り出し、中途半端なヘッドロックを両手でかけて、耳の近くで囁いてみる。
「何がしたい?」
ふ、と肩が震えるのがわかった。そのまま笑い出す。経過はどうあれ、機嫌は直ったらしい。
猫かお前は。
無視していれば近寄ってくる癖に、構ってやろうとするとすぐに逃げる。

何もしない休日、ありふれた贅沢、恋人と過ごす一日。

別に、何も、と彼は答えた。











end





20110710