missin’ and call my name



 








失うということは、獲得しているということだった。そんなことにすら俺は気づいていなかった。
欲しがるばかりで、手に入るということがどういうことなのかわかっていなかった。



もっと引き裂かれるような痛みとか、身を捩るような悲しみだとか。そういうものがあるのかと思っていた。
でも本当は、そんなものを感じたりしなかった。
そんなこととっくに知っていたのに。これが初めてでもないくせに。
なのに、俺はまた失敗したらしい。
お前はもっと頭脳派だと思ってた、と、あいつが言った。
頭脳派? それってお前がいなくても平気な人間ってこと? 理性で感情を押さえ込めるってことか?
馬鹿じゃねえの。
そんな器用なことができるくらいなら、お前と一緒にいたりしない。何もかも奪って檻の中に入れておきたいだなんてくだらないことを考えたりしない。
本当にくだらない。そんなことを考えるような人間じゃなかったはずなのに。
誰かを本気で手に入れられるだなんて。
間違いなくそんなのは妄想で、誰かを本気で所有する気なら、自分の心臓くらい差し出せないと駄目だ。しかも差し出したところでそれを受け入れてもらえるかは別問題で。自分がそんなことを考えるような人間だったことに、幾らか失望を覚えるくらいだ。
そして思考はどこまでも遠く飛んで行き、いつの間にか元に戻る。無限ループしていて抜け出せそうにない。
付加条件抜きでお前を信じられるような人間ならよかったのに、どうしてそういう単純で純粋な構造になっていないんだろう。全ての行動に制約をつけて、ある条件下でしかお前を信じられない。ふと気づいたら、俺はお前のことを、欠片も信じていなかった。だから喪失感もない。圧倒的な不在を感じるだけだ。
壊れてるな、と思う。今、俺は九子菜正臣として機能してない。もう契約の心臓は差し出してしまったから、それ以外の器官が自動的に動かしているただの塊だった。

何回同じことをされても学習しない。
本当に、俺は馬鹿だ。










   1






俺はその時19歳で、銃使いだということを隠して生きていた。皮一枚で何とか繋がる日常。踏み外せば簡単に消える平穏。その元凶とも言える九鬼は、不思議なことに俺の目の前から完全に消えはしなかった。
惰性のように、会ったり会わなかったりをずっと繰り返している。いつも唐突に九鬼は現れ、そして唐突に消える。その間はまちまちで、次の約束は決してしない。でも会ってしまうと箍が外れる。


「そういう格好でうろうろするな」
「え?」
九鬼がシャツを投げてくる。面倒だったが仕方なくそれを羽織る。
「本当にお前はそういうところ気にしないな、」
「……悪いかよ」
「別に、悪くないけど」
目の毒だから、と九鬼が言う。お前だって同じような格好のくせに。
こういうところを一度崩すと、元に戻すのが凄く億劫になる。服を着る、決まった時間に起きる、食事をする。制約がなければどこまでも崩れていく。深みに嵌まる、とはこういうことを言うんだろう。それは驚くほど簡単で、元に戻すのは至難の業だ。九鬼といると、どうしてもそちらにシフトしてしまう。悪い癖だった。

「そういうところ、直してくれると気を揉まなくてもいいんだけど」
「はあ? お前が?」
「そう。知らないのか?」
「知らねえよ。何言ってんのお前……」

気を揉むくらいなら、どこかに行かなければいい。とか、最低に頭の悪いことを考える。
九鬼がコーヒーを入れたマグをくれた。俺はソファにうずくまってそれを啜る。温かい飲み物のせいで少し弛緩する。まだ体中が痺れている気がする。

「……もう馬鹿んなりそう」

何を今更、と九鬼が言った。
誰のせいだ、と言いたかったが多分泥沼になるので黙っていた。どっちが悪いのでもない。両方悪いのだ。
体から見えない触手が伸びていて、もう離れたというのに未だにそれが九鬼の存在を探っている感じがする。
もういい、という限界を知らないみたいだ。気持ち悪い。感覚を遮断したくてソファの上で膝を抱いて丸まった。

ずっと、気になっていたことがあった。それが自分だけなのか、九鬼もそうなのか、聞きたくて訊けずにいる。もし自分だけだったら恥ずかしいし気持ち悪い。今だって結構ぎりぎりなのに、これ以上深みに嵌まったらもう浮上できない。だから黙っている。
意味というか、理由がわからなかったのは経験とかそういうことかと思って、他の人間とも試してみた。でも九鬼と同じことは起こらなかった。そのうち馬鹿らしくなってやめてしまった。わかっていることは、性別とか年齢とか全く関係なく、ただ<回路が開く>ということだ。それが九鬼が相手のときにだけ起こる。
無理矢理言葉にすると意味がわからないが、他に言いようが無い。最初に会った時、初めてそれが起きた。
頻発はしないが、今も実際そうなっている。
確証は持てない。九鬼に関しては何もかもそうだ。陽炎みたいに掴みどころがなくて、ただ感じるだけ。そんなこと誰にも説明できないし、自分でもわからない。ただそれが起こるのを待っている。
パブロフの犬。
浅ましいと思うが、自分では制御できないから始末に負えない。

「何考えてるの、」

九鬼が言う。

「……お前のこと」
「ストレートだな」

苦笑する空気が伝わってくる。だって他になんと言えばいいのだ。
わけわかんねぇ、と毒づきたい。
理解したいのに、理屈では説明できないから苛々する。何でこんなことが起こるんだ。
九鬼が立ち上がってこっちに近づいてくる。見ていないのにわかる。まだ回路が開いているからだ。やめろ、近づくな。また始まってしまう。でもそれを自分から遮蔽することはできない。だから全部九鬼のせいにする。それは多分逃げなんだろう。
伏せた顔に手が触れて、わかっていたのにびくっと肩が震えた。
こっちを見ろと強制される。触るな、俺に強制するな。徒に反発する気持ちが強くなる。

「何か変なこと考えてるだろう」
「変って何が、」
「不穏なことだよ。お前が黙るとろくな事が無い」
「人をスピーカーみたいに……」
「お前が騒いでると安心する」
騒いでねえよ、失礼な奴だな。
「てか、触んな」
首を振って九鬼の手を払う。
「嫌だ。触りたい」
それでも九鬼は執拗に追う。
駄々っ子か。つうか、ほんと、こっちくんな!
俺は伸びてくる九鬼の手をはねつけた。

「怖い?」

ふと真顔になって九鬼が言った。
俺が触るのは、怖い?

「違……、」

そうじゃねえよ。わかんねえ奴だな。

「お前が嫌なら、こういうのはもうやめる」

俺が強要したようなものだから、本当に嫌だったら、しない。と九鬼が言った。
俺は答えられない。そのままで黙っていると、九鬼がゆっくり立ち上がって、離れていった。
九鬼が視界から消える。



その時ようやく俺は怒っているのだと気づいた。勝手な言い草。お前は本当は俺のことなんてどうだっていいんだろう。自分の空虚が埋まればいいんだろう。それに都合がいいだけだろう、俺は。何が「本当に嫌だったら」だ。今更、ここまでしておいて。人を根底から改変するくらいのことをしておいて、嵐みたいに攫っていったくせに。
ふざけるな。
俺はそばにあったマグをテーブルに力任せに叩きつけた。当然のように割れる。俺はその破片を拾い上げて、自分の左腕に当てた。そんなことをするのがびっくりするほど久しぶりで、加減を誤った。そうだ、九鬼に会うまでは、俺はそんなことばかりやっていた。ほんの少ししかたっていないはずなのに、それが思い出せないくらい昔のことに思えた。
そして今は別の理由で同じことをしている。
みるみるうちに前腕に紅い線が浮き上がり、珠になり、流れになった。痛みは無い。前と同じだ。
その瞬間に右手から破片が落ちた。凄い力で叩き落されたのだ。

「この馬鹿!!」

いってえな、殴んなよ。傷よりそっちのが痛い。

「何なんだよ、」
「それはこっちの台詞だ!」

九鬼が怒っている。そんなの初めて見た。どうして怒ってるのかわからなかった。お前がやめるって言ったのに。
でもこれは実験だ。気を惹くためにやったんじゃない。

「なあ、お前、痛いか?」

ずっと気になっていたことを言った。
目の前で何か弱いものや大事なものが傷つくのを見て痛いとか、そういう共感じゃなくて、俺の独立した痛みを実際にお前が感じてるのか?
それが知りたかった。

「痛いよ」

九鬼が言った。
傷はない、同じところに傷が現れたりはしない。でも痛い。それがどんな種類で、どれくらいの深さか。それがわかると九鬼が言った。

なんだ。
やっぱりそうだったんだ。
俺だけがそう思ってたんじゃないんだ。

傷の痛みに俺は驚くほど鈍感だった。いつもそうだった。今はただ九鬼が掴んだ左の手首だけが痛かった。
九鬼の目を見た。燃えるように瞬く怒りと、それを抑制する理性が鬩ぎあっていて、俺は言葉を失くす。

「……二度とするな」

九鬼が言う。ゆらめくような怒気を薄皮一枚で守っている。そういう感じだった。
俺は頷く。
ごめん。試すようなことしてごめん。
でも知りたかったんだ。お前がどう感じるのかを。俺は言葉が足りなくて、それを上手に訊ける気がしなかった。怒りを抑える努力をしている九鬼を見ていたら、自分がどれくらい酷いことを九鬼にしたのかわかった。
俺はいつもそういうことがわからない。……いつでも。

謝ろうと口を開くと、九鬼が咬みつくようにキスをした。
舌を引きずり出され、そのまま咀嚼されるんじゃないかっていうくらいの強さで咬まれた。
制止する暇はなかった。髪を掴まれて仰のかされ、長い長いキスをした。
その間も九鬼は俺の左腕を掴んだままで、血は流れ続けていた。
止血しねえと、と思ったのは随分経ってからだった。経験上大したことは無いのはわかっている。神経にも異常は無い。皮膚一枚を裂いただけだ。
床が血で汚れていた。軽い残虐シーンみたいだった。
九鬼が、腕を引き寄せてその傷を舐めた。その時初めて俺は傷が痛いものなのだとはっきり自覚した。九鬼が、唇をつけたところから。九鬼がどんな気持ちでそれをしたのかも。
後悔は後からやってきた。ただの好奇心と、つまらない反発心で、九鬼を傷つけたと思った。
もうしない。二度と、自分からそんなことはしない。
脈打つような、疼くようなそれは、少しだけ快楽を含む毒薬みたいだった。
それから気づく。
それこそが九鬼の感じている痛み、そのものだということに。

どうしてそんな回路が開いたのか、何故それが存在しているのか、俺にも九鬼にもわからなかった。

包帯を巻いた腕で九鬼を抱くと、またあの甘いような疼痛がした。
痛みと快楽は繋がっていて、そして似て非なるものだった。俺と九鬼みたいに。


 







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20111030