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足音がする。もしかして嗅ぎつけられただろうか。
夢中になっていた。つい周囲の警戒を怠った。夢中というよりは、熱中、の方がこの場合正しいかもしれない。
出会い頭だった。制止する暇もなかった。
もう一人の銃使いと鉢合わせしてしまったのだ。そいつも多分追われていた。
瞬間的に銃を生み出し――グロック34。グロック使いだ。接近戦向き。僕と同じ。
照準を合わされた時には僕もすでに右手にベレッタM92FSコンバットを生んでいた。
考えなくてもできる。殴られそうになったら防御する、殴り返す、そういう反射。
僕も随分剣呑になってしまったものだ。
そして、そいつは強かった。
オートマティックにスローモーションが発動、初弾を回避。
そこから後は良く覚えていない。気がついたら相手は倒れていた。心臓に二発、眉間に一発。
完全に事切れている。ゆっくりと体内の血が流れ出している。
ほとんど言葉を交わす間もなかった。目線が一度だけ合い、誰何された。それだけだった。
無差別に攻撃してくるなら、誰何なんて意味がないのに。世界の全てが敵だ、という狂騒に侵されていた。
いくつか銃弾が体を掠った。戦闘が終わったすぐ後では、まだ痛みを感じることができない。
傷を傷として視認するまでは脳が認識しない。それは随分能天気な作用だと思うけれど、今はそれがありがたかった。
逃げないと。誰か来る。
疲れ切っていた。壁を支えにして立ち上がり、動き出そうとして、僕は膝が萎えそうになった。

「何してるの?」

血飛沫が飛び散る現場で、のほほん、と描写してもいいくらいの口調で、九鬼さんが僕に聞いた。
今日は神父のコスチュームではなくて、レザージャケットにデニム、ごつめのワークブーツという格好だった。
「九鬼さん……」
僕は体を折り、膝に手をかけてため息をついた。
「終わってからくるなんて、登場が遅いですよ……」
「ああ、急いだんだけど、ちょっと手間取って。…まだ若い子だね」
そう、多分僕と同年代。一つか二つ、学年は上かもしれない。床に崩れ落ちた銃使いを眺め、九鬼さんは無感動に言った。
それに俺がいても竜座は邪魔でしょ。後方からフォローできるならまだしも。
「九鬼さんはどうしたんですか」
「この近くで野暮用。ビルを出たら君の気配がしたから、それ目指して来たんだけど」
九鬼さんは僕に近寄り、怪我をしていない方の肩を掴んだ。そして曰く言いがたい顔で僕の顔を覗き込んだ。
「大丈夫? ちょっと怪我してるね」
「ああ、平気、です」
肩や腕に裂傷。服が裂けてすでに血が滲んでいる。どの道九鬼さんに連絡していただろう。一人で帰るには物騒すぎる。
だから、来てくれて本当によかった。
銃使いは一人では絶対に生き延びられない。支援とフォローが必須。当たり前だ。
散々銃をぶっ放して、そのまま日常に戻るなんて、本当に戯画のようだ。勿論その日常は、普通の日常ではないけれど。
「俺バイクで来たんだけど、家まで持ちそう?」
「はい……」
正臣に車出させた方がいいかな、と言う九鬼さんのジャケットの裾を掴んだ。
その時、心臓が大きく脈打った。
何かおかしかった。
早く帰りたい。
このまま外にいたくない。何だろう、逃げなければ、とか、この現場に長くいるのは危険だ、とか、そういうことは脳裏に浮かばなかった。
「帰りたい、」
僕が囁くようにそれだけ言うと、九鬼さんは僕の腕を掴んで、黙って歩き出した。

 

 

うちに帰る。淵から足を踏み外してしまった僕が、決定的に失くしてしまった概念。
帰るところがあるかどうかで、銃使いの平均活動時間は飛躍的に変わる。
活動時間というのが偽善的なら、はっきり「寿命」と言い切ってしまってもいい。スポーツ選手の選手寿命のようなものだ。
ただ、アスリートならば競技生命を終えたとしても、その後の人生がある。一線で競技ができなくなっても、まだそれから生きていくことができる。
だが僕たちにはそれがない。生命活動と、選手寿命がイコールで結ばれている。
前線に立つ銃使いの平均寿命を計測してみれば、おそらく覚醒から5年と持たないだろう。
だから、僕に帰るべきところがあるというのは、ほとんど僥倖だろう。その5年を、運がよければ生き延びられる可能性があるからだ。
そんな可能性があることすら、もしかしたら銃使いとしての自覚すら、抱く前に殺される。
そっちの方が、銃使いの覚醒としてはメジャーなのだ。そこを生き延びられたら、ようやく活動時間のカウントダウンが開始される。
概算5年、1825日、秒にして157,680,000のカウントが。
僕は今、一億五千万のうちどの辺りにいるんだろう。そして、さっき僕が殺した銃使いのカウントは、どの辺だったのだろう。
彼も僕も、やがて数値のサンプルのひとつになり、統計に組み込まれるんだろうか。

九鬼さんのVMAXのタンデムシートで、そんなことを考えた。しがみついているのに必死なくせに、そういう無駄なことを考えるのが僕の癖だった。
考えたところで仕方がないのに。今そのカウントが0になることだってあり得るし、そもそも5年という概算にすら追いつけないのかもしれない。
明日のことはわからない。
それでも今は帰る家がある。なんか、あの歌みたいだな。
それから僕は、鎮静剤のような緩やかなカントリー調のBGMとともに眠り込んでしまったようだった。

 

 


目が覚めたら、傷はきちんと手当てされ、包帯を巻かれていた。右肩、左の前腕、それから擦過傷に絆創膏。
すっかり見慣れた、今の自分のベッド。そこから見上げる天井。何の装飾もない。
寝るところがあればいい、という観念に基づいた、合理的殺風景。部屋の中は仄暗く、ベッド脇の背の高いスタンドライトだけが点いている。
もう僕は最初に持っていたはずの「自分の部屋」が思い出せない。銃使いになる前の自分が思い出せない。
今はここが自分の居場所だと信じることができる。矢崎竜座という名前の、取るに足らない一人の銃使い。
ほとんど自己暗示が作り上げた、薄っぺらなカードみたいな僕のアイデンティティ。

ドアの向こうでノック音がした。横着して、起き上がる前に返事をした。
「竜座、飯出来たけど食えそう?」
九子菜さんだった。右手に水のボトルを持っている。
ドアを開け、僕が起きているのを確認すると、するりと大型の肉食獣みたいな足取りで部屋に入ってきた。
「あ…すいません。これ、手当てしてくれたの九子菜さんですか」
だるくて体が持ち上がらない。九子菜さんはベッドに近づき、そばにボトルを置くと僕の額に手を当てた。
「そう。傷自体は大したことないけど、ちょっと熱出てんな。起きられる?」
ベッドから体を起こそうとしたが、背中がシーツと張り付いているみたいだった。関節に力が入らない。
「ああ、無理しなくていいぜ。後で塁我が飯持ってくるって言ってたから。ちょっと食べて、薬飲んだらまた寝ろ」
「……ごめんなさい」
「あ? 何が」
「いや、僕、すごい面倒かけてるから…大丈夫です。九子菜さん、忙しいのに」
すると九子菜さんは急に黙った。
あれ、また僕は何か地雷を踏んだのだろうか。今の会話のどこにあったんだろう。
「……今んとこ、熱出してへばってる竜座を介抱するっつう重要事項以外に特に緊急の用事が見当たらないんだけど」
えええ。そんな。
「竜座が嫌なら退散するけど?」
やはり僕は九子菜さんの機嫌を損ねてしまったらしい。
「……嫌じゃないです。ごめんなさい」
「へえ? 今日は何か素直だな」
からかうように僕の顔を上から覗き込む。……近い。僕は反射的に顔を背けた。
「あんま見ないでください。九子菜さんと並ぶと僕の相対的な存在価値を考えて死にたくなります」
九子菜さんは馬鹿な冗談を聞いたみたいに噴出し、真剣に言った僕の意見を一蹴した。
「俺は竜座見てるといっつも同じことしか考えねえけど」
「……なんですか」
「あーやりてえなって」
0距離射撃か。
「ちょ……心臓おかしくなるからほんと適当な嘘言うのやめてもらえませんか」
殊勝なことを言ったのが本当に馬鹿みたいだ。嘘でもやめて欲しい。
「嘘じゃないって。勿論今も思ってるけど」
……自慢げに言うことなのだろうか、それは。
「竜座、水飲む?」
九子菜さんが楽しそうに言った。喉が渇いていることはわかっていたのだが、この展開は危ない。
「……自分で飲みます」
「えー」
子供のように口を尖らす。ちょっと可愛かったが、ここで流されてはいけないことを僕は散々学習している。
しかし手に力が入らないので渡されたボトルの栓が開けられないという醜態をまず晒し、苦笑されながら栓を開けてもらった。
ちょっとだけ体を起こして、ボトルを呷った。一口含んだら恐ろしく渇いていることに気づいて、喉を鳴らして一気に半分ほど飲んでしまった。
ぷは、とボトルから口を離す。それをじっと九子菜さんが見ていたのに気づく。
「……どうしたんですか」
「もっかいやって」
「は?」
「もう一回飲んで」
なんで? と思ったがまだ飲みたかったので、僕はボトルをくわえた。
ごくり、と飲み込もうと思ったら、九子菜さんが喉に噛み付いた。
思い切りむせそうになって、必死にこらえた。
「……ちょ、何すんですか……!」
「ああ、お構いなく」
やばい、喉元の間合いに入られた。近いとかそういう問題ではなくなっている。
「構いますよ! やめ、てください、こぼれる……」
口の端から溢れた水分を九子菜さんが舌で舐め取った。
最初から、そうしようと決めていたのだ、多分。あっさりもう一回などとアンコールに応えてしまったのが失敗だった。
「キスしていい?」
九子菜さんが言う。何を、今更。
「も、う、してるじゃない、ですか」
「うん、ごめん」
謝られても。パイプベッドのヘッドに後頭部が押し付けられた。さっきむせたせいで、最初から酸欠気味だ。
唇が離れるたびに呼吸を優先するので、息遣いが荒くなる。キスで凄く興奮してるみたいに。
舌で上顎をなぞられて背筋がそそけ立った。
体を支える右肘と、ボトルを持っている左手で両手が塞がっているのをいいことに、九子菜さんが上から押さえつけるようにキスの角度を変える。
声が漏れそうになって、それを無理矢理飲み込む。
「我慢しなくていいのに」
そもそも我慢するようなことしてるのは誰だよ、と思ったが発言する余裕がない。
「口ん中、いつもより熱い」
口調が少し笑っている。クソ、なんでこんなことに。九子菜さんの舌に歯を立てたら髪を引っ張られた。
子供の喧嘩みたいだ。でもそれもだんだん気持ちよくなってきてしまうのが困る。
だから、最初九子菜さんが誰と会話してるのかわからなかった。
「正臣。お前は病床の子に何してんの」
「襲ってる」
「要安静ってお前が言ったんだろ」
「そうだっけ」
はっと気づいたら、湯気の上がる皿をトレイに載せた九鬼さんが部屋にいる。いつ来たんだろう。
しかも九子菜さんがキスしながら会話するという器用なことをしている。しかも横目で九鬼さんを見ながら。器用すぎないか!?
「矢崎くん、ご飯食べられる?」
普通の口調で聞かれたが、答えられない。口が塞がっているからだ。
「ん、んん!」
「……無理そうだね」
無理じゃなくて、食べたいです、と答えたい。けど、ちょっと、九子菜さんっ!!
暴れようとしたら、九子菜さんがようやくキスを解除してくれた。はあ、はあ、と酸素を吸い込む。
「熱は?」
「まだ計ってねえけど、感触37度」
「ちょっとあるね。夜に上がるかな」
「多分な。氷作った?」
「さっき入れたからもうちょっと。解熱剤あったっけ」
「あー、俺んとこにまだある」
業務連絡的会話を人の頭越しにするのは……どうかと……と思いつつまだ整わない息をひそめる。
ていうか、体温を計るなら普通にやってほしい。逆に体温が上がりそうだ。
だんだんぼんやりしてきたのは酸欠なだけじゃなくて、多分熱が実際に上がってきているからだろう。

九鬼さんが僕を覗き込む。口が開いたままのボトルを取って、避難させてくれた。
「大丈夫?」
その口調がいつもより優しかった。
「正臣が無茶するからいけないんだよね。ごめんね」
僕は黙っている。
正直に言ってしまえば、嫌じゃないんです、本当は。怖いだけです。止まらなくなるのが。
そんなこと言えるわけない。頭がおかしい。でもそうやって自制しなければ、どこまでも落ちていけるだろう。
「さっき、俺が見つけた時だけど。ちょっと変だなって思ったんだけど、平気?」
「変、でしたか」
「うん、顔真っ白だったし。怪我以外にどっか痛いところとかない? 頭痛とかしない?」
「それは、大丈夫です。セカンドステップは出たけど、あれはほとんど自動的なものだし」
自分の身に何も起きていないとき、力場を展開せずに故意に出そうとしても難しい。
「……出たんだ。結構厄介な相手だったの?」
「はい。言葉が通じなくて…止められませんでした」
「俺がもう少し早く行ってたら、違った?」
僕は少し考えて、首を横に振った。どの道戦闘は避けられなかっただろうし、多分何も変わらなかった。
僕が彼を殺すことは。
殺すことに躊躇はない。そして自分が殺されることにも。
ギリギリのラインをくぐった後で、立っているのがどちらだったかというだけのことだ。
そこに優劣はない。結果が全てだ。
できることなら、と僕は思った。
仕方ない、と思える相手に殺されたい。
僕はあのグロック使いにとって、ただの疫病神や死神みたいなものに見えただろうか?
彼は何を思って死んだんだろう。
「リュウザ、」
九鬼さんが僕を呼ぶ。優しい声だ。僕に対する、多分最上級の優しさ。
「戻っておいで。ご飯、食べられそう?」
僕は思わず九鬼さんの首に腕を回した。
そんなに優しくする必要はないんです、僕は多分、何も返せない。何も持ってない。悲しくなるほど。
銃使いになる前も、今も、僕は何も所有してない。だから、捨ててきたわけじゃない。捨てるほどのものを持たなかった。
今も戦うことしかできない。
何だか泣けてきた。どうして僕はもっと努力してこなかったんだろう、勉強や能力より先に、人としての優しさとか。そういうことを。
「リュウザ、泣かなくていいよ」
九鬼さんが言った。
違うんです。そうじゃなくて、情けないから。
九鬼さんが僕の瞼にキスする。

九子菜さんが僕の手を取って、掌にキスしてくれた。
二人に会ってから、僕はずっと泣いている気がする。
子供のように。
幸せだ、と思った。
二人と一緒にいたい。それだけでいい。
多分僕はどこかおかしくなってしまった。でももう戻れない。二人がいない世界にはもう。

 

 

 


ふと気がつくと、僕はベッドに一人きりだった。解けかけていた包帯が、きちんと巻きなおしてある。
それを見て、僕はまた少し泣きそうになる。
どうしてあの二人はあんなに優しいんだろう。何もかも与えてくれるんだろう。
その答えはとても簡単な一言で表せるのに、僕にはとてもそこにたどり着けそうになかった。
もう散々泣いて、もう水分が体から出尽くしてしまったようだ。
泣いた後の、だるいのにすっきりしたような頭の中で、僕は考える。何が大事で、何がどうでもいいことなのか、僕はようやくわかりかけている。
僕に足りないもの。足りているものの方が少ないなんて知っている。
それでも僕が焦がれるほど手に入れたいと願っているもの。

ああ、そうか。僕は唐突に気が付いた。
どうしてあの二人が一緒にいるのか。銃使いは一人では生きていけないし、生き延びるなら絶対に二人以上でチームを組まなきゃいけない。
その最小単位。そのためにこの二人はいるんだ。生存のための戦略かつ戦術として。

そしてそこに僕がいる、その理由。
僕が、二人の帰ってくる場所であること。
そうありたいと心底願っていること。
二人にどうしようもないほど恋をしていること。
それこそが僕に初めて生まれたアイデンティティで、それが全てでいい。
本当は、それ以外何もいらない。

今、それを持たせてくれたことを、感謝します。
誰に対する感謝なのかはわからない。
きっと神様とか、そういうもの。
僕は見たことがない。
きっとこれからも見ることはないだろう。
それでいいんだ。

僕はようやく眠りについた。
空が白くなる前の、一億五千万分の一の暗い夜の中で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20110928

 


勿論竜座は残された時間が一億もないことを知らない。
抹殺されてしまった単行本初版に最大級のリスペクトを。