bust out
携帯を取り出して、通話を選びながら階段を降りた。
あいつは絶対に2コールで出るとわかっている。名前も言う必要は無い。
「はい、」
予想通りのタイミングで声がする。
「迎えに来て」
必要最低限の文節で要求した。
「どこ?」
俺は商業ビルの名前を言う。拾い易いところにいるから、すぐ来い。
「どこか寄る?」
「あァ、多分。お前アレで来てよ、メンテ終わったろ」
「いいよ、」
「じゃあ後で」
電話を切った。
もしジェット機で来いとか。実現不可能なことを言っても、もしかしたらあいつはイエスと言うのかもしれない。俺がノーと言われることが嫌いだと知っているから。だから俺はどんどん付け上がる。
俺に掛けられた賭金の額と共に。
数十分後、随分早い。きっと捕まるギリギリの速度で飛ばしてきたのだろう。道楽のための車。アルファロメオのスパイダー。メンテの面倒くさい、金のかかるわがまま女(多分、女だ)。金のかかることには、それなりの理由がきちんとある。俺は彼女のエンジン音が一番好きだ。
塁我の好みを聞けば、ポルシェかな、と言うが、俺はこれがいい。一度乗ると、他の車が酷くつまらないものに思える。本来は俺のものなのに、俺より塁我の方がまめに彼女の面倒を見てやっている気がするが、適任なのだから仕方が無い。
時計を見る。もうじき夜になる。最後の残照が西の空をオレンジに染めていた。
エンジンが大型の動物みたいに唸って、滑らかに動き出す。オープン2シータ。勿論冬だろうが滅多なことで幌は下ろさない。メタルシルバーの車体は美しい流線型をしている。
「寒くない?」
「平気」
バイクで来い、と言ってもよかった。でもそれだと顔が見えない。
俺はこいつがステアリングを握っている姿を見るのが好きだ。運転は俺より上手い。路面にあらかじめ決められたラインが見えるみたいに車体を操る。だからスピードが出ていることに無頓着になる。
エグゾーストが高音域に入る。
ふと気づくといつの間にか環状線に乗っていた。帰る道程ではない。日没前のウォーターフロントなんてクソだ。デートコースでもあるまいし。うんざりするようなシティヴューの演出と、恋人向けのアトラクション。そんなもの興味も無いくせに。
「寝ちゃった?」
黙っていたら、声を掛けられた。
「寝てねえよ。つかどこ行くんだよ、」
「知らない」
無責任に言うその顔を、俺は眺める。じっと見ていたら、やめてと言われた。
別に、減るもんでもねえだろ。
気が散るから、と言われた。嘘つけと思ったが、じゃあ代わってよ、と言うから無言で拒否する。なんで俺が。
塁我が小さく溜息をついて、それも後方に流されて消える。
夕闇が降りてきて、環状線から見える無数のライトの方が明るくなっていく。
空のグラデーションがもう少しで完全に消える。
そう言えば今日は晴れだったんだ、ともう一日が終わる頃に気づく。一日中建物の中にいて、周囲を見る余裕もなかった。別に今に始まったことでもないのに、物凄く損をしている気になった。だからこんな景色を見たくなかったのに。綺麗だと感じる機能が麻痺している。だから俺は運転席の男を眺める行為に戻る。
本当はスパイダーが好きなのではないのかもしれない。そうではなくて、ただそれを駆るこいつが見たいだけなのかもしれない。そう思ってから俺は正気かと少し思った。
塁我が不意に言った。
「ねえ、帰るの面倒臭くなってきた。さっきお前の顔見たら」
「何それ」
「帰るのやめない?」
子供みたいなことを言う。いつもなら俺が言うような戯言。やめたところで、何が変わるわけでもないのに。
何かが引き伸ばされて後回しになるだけだ。
でも変わらないなら、どっちでも同じことだった。
だから好きにしろと言った。
夕方の渋滞に巻き込まれる前に、スパイダーは環状線を下りた。
最初に目に付いた、得体の知れないモーテルの地下駐車場に車を停める、ほんの数分待つのが面倒だった。
転がり込むようにして部屋に入って、キスが始まってからそういえば飯食うの忘れた、と思い出した。
俺が運転する塁我を見たがるのは、それを邪魔したいからだ。
俺を見まいとする塁我を挑発するのが楽しいからだ。
気が散るのなんて当たり前だ。そうじゃなきゃ面白くないだろ?
俺が笑うのを塁我は不思議そうに見て、また悪いこと考えてる顔してる、と言った。
後回しにしたのは俺なのか塁我なのか、もうわからなかった。
近いうちに俺たちは今までどおりではいられなくなる。それだけはわかっていて、避けることはできない。
でもそれをできるだけ先に送って、気づいてもいない振りをする。
テーブルについているのが2人だけになって、もう随分たつ。
つり上がった賭金は、すでに天文学的数値になっていて、もう金銭では支払うことができなくなっている。
俺がサレンダーを選ぶか、奴に俺を差し出すことでしか。そして俺はどちらも選ぶ気は無い。
だから選択し続けなければならない。
いつかバストするまで。
END
2011114

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