booby trap

 

 

 

僕はマクドナルドにいて、人を待っている。
このマクドナルドはビルの上階に入っているから、ガラス張りのフロアからは地面を歩く人たちが見える。
その窓際のスツールに座り、アイスティーを啜りながらガラスに映る自分を見る。
野暮ったい眼鏡と、ニットキャップ。顔を真正面から覗き込まれない限り、簡単に素性がバレたりはしない。多分。
そもそも僕は埋没するのが得意だ。どんなに目立とうとしても、僕は人の意識に残りにくい。
最近はそれを逆手に取ることを覚えた。どうやったら常に埋没の薄皮を被っていられるか、考える。簡単だが、意識してしまうとそれが表に出る。目立たないということはどういうことなのか、考えてはいけない。考えないようにして、頭は別のことを考える。
それがコツだ。

アイスティーのクラッシュアイスが溶けて、水っぽくなった。僕はそれを飲み込んで、路上と室内の観察に戻る。

仮にここで銃撃戦になったとする。一番混乱するのは入り口付近のレジ前だろう。逃走経路としては最悪。しかしここはオフィスビルと小さいショッピングモールの複合施設だから、トイレが外部と共有になっている。入り口と反対のドア付近はがらんとしていて客はまばらだ。ガラスに映っている室内を眺める限り、そこまで約10メートル。入り口からの遮蔽物は、都合のいいことにコンクリート製の柱が壁から飛び出している。そこに不思議な絵の額縁がかかっていて、無機質すぎる内装を緩和しようとしているが、余り役に立っているとは言えない。
が、とにかく壁に沿ってテーブルと椅子の隙間を縫いつつ走れば数秒。外に出たら迷わず非常階段を使う。位置はわかっている。階段の途中で飛び降りると、隣のビルの二階の窓上にある庇に移れる。あとはそこから隣のビルへ侵入するか、庇を使ってそのまま階段下へショートカットするか。

そこまで考える必要はないのかもしれない。でも考える癖がついている。常に入り口とは別の経路があるか、退路があるかどうか。袋小路になった室内には最初から入らない。
すっかり犯罪者としてのスキルが身についてしまった。
自分が犯罪者である自覚は相変わらず、ほとんどないにも関わらず。

表は薄曇りで、夕方になりつつある。
下を歩く人々は上をちらりと見ることもなく行き交っている。

待ち人はまだ来ない。

背の高いスツールの上で、足をぶらぶらさせながらアイスティーを飲み干した時だった。

横の席に男がやってきて座った。
40代位の、中年男だった。周りは閑散としていて、他にいくらでも空席があるのに。
不思議に思ったが、特に反応はしなかった。窓際は見晴らしがいいから、座りたいなら座ればいい。
構わない。
僕に用がないなら。
数秒待った。男はハンバーガーの包みを開けるのに手間取っている。普通の客だった。密偵ならそんなことはしないだろう。僕が存在を認識する距離には入らず、一定の距離を保つだろう。僕ならそうする。
僕の隣に座った時点で密偵である可能性は消えている。尾行がついているならすでに僕は捕まっている筈だ。
しかし、内部のことしか考えていなかったがこの席は狙撃されるのにうってつけだ。どこからでも狙える。やっぱり僕はどこか抜けている。

きっと待ち人はまだしばらく来ない。時間の指定はしていない。
鞄から、進学塾の模試と講習のパンフレットを取り出した。ここに来る間にふと見かけて、なんとなく手に取ってしまったのだ。
僕の進学はすでに全ての道が絶たれている。その筈だ。何の役にも立たないと思った学校が、今となっては懐かしい。同級生たちはもうみんな大学生なのだろう。
ほとんど顔も思い出せないけれど。
パンフレットを開いて、内容を読む。講師陣の充実や設備の素晴らしさをしきりに謳っている。なんとなく、この予備校の講習は受けたくないなあ、と思った。外面ばかりアピールしているからだ。どんな成果が得られるかは書いていない。勿論、そこは自主努力なのだろうが。
そのパンフレットを読み終え、新しいアイスティーを買いに行くついでに、席の移動でもしようかな、と思った。ふと顔を上げて驚いた。横にいた男が、さっきよりずっと近いところにいる。
一定の間隔を空けて置かれたスツールごと、こちらに接近していた。
何なんだコイツ。
相変わらず周囲に異変はない。客もまばらで、こちらに注意を向けている人間はいない。
この横にいる男以外は。
男はこちらを見ておらず、ぼんやり窓の外を見ている。僕の席は窓と壁の直角になった隅っこだったから、左側はすぐ壁なのだ。壁に張り付いて、男のほうを見ないように様子を伺った。
ハンバーガーは食べかけのまま、包み紙に入ってトレイの上に置かれている。冷めたら食べられたものじゃないのに。
何か変だ、と思った瞬間だった。男の右手が伸びて、僕を触った。
うわ!
内心ぎょっとした。
ほんとうにびっくりすると、声なんて出ない。
数秒ぽかんとしてしまってから、やっと気が付いた。
これはあれか、信じたくないが、まさか痴漢というやつ!?
な、なんで僕なんだ。他にいくらでもいるだろう!
と思ったが、そんな男の内面なんかわからない。
他の人間ならいいのかということも問題なのだが、男は僕が声を上げないことに気をよくしたのか、しきりに触ってくる。
腕を上げて振り払うには距離が近すぎる。壁と男の間に完全に入ってしまっている。
僕は軽くパニックになった。背中に回った腕が、次第に尻の方へ降りてくる。執拗な腕とは別に、男はこちらを全く見ない。なのに、体を寄せてくる。
気持ち悪い気持ち悪いこっちへ来るな!!
騒ぎになるのは駄目だ。目立たないことが絶対条件なのだから。でも、どうしたらいい?
僕は考えた。それまでにないくらい必死に考えた。思考停止しようとしている脳を必死に回転させた。
落ち着け。パニックを収めろ。平気だ、こんなの全然たいしたことじゃない。
まだ何も起きてはいない。人の注意を惹くようなことは。
振り払ったら駄目だ。スツールを蹴立てるようなことも駄目。
僕が取るべき道は一つだけだった。
男の腕を、逆らわずに自分から取った。男が驚いたようにこちらを見る。白々しい。でもその白々しさが、なんとなく慣れを感じさせた。そしてその振舞い自体が、目立たないような煙幕にもなっている。
僕は男の目を見る。どんよりと濁っていて、焦点が合っていない。この目は見たことがある。
それから、僕は笑う。ほとんどわからないくらいの小さい微笑を浮かべる。嫌悪を出しては駄目だ。こちらに反撃する意志が無いことを伝える。
一度だけ男の手を握って、そっと離す。鞄を持って、アイスティーの紙コップを男のトレイに乗せる。
それから静かにスツールを降り、退避経路だった外部トイレへ向かう。
思ったとおり、男はゴミを捨て、あとからついてきた。
ついてくることそれ自体が、身の毛もよだつほど気持ち悪かった。多分初めてではないのだ。ここがあの男の猟場なのだ。
そして何度も成功している。誰にも悟られずに、自分の欲望を満たすことを。
僕から少し距離を置いて、男はついてくる。回廊を抜けて、男子トイレのドアを開ける。
トイレには誰もいなかった。誰か人がいたら、そこで逃げようと思っていたが、当てが外れた。


僕は深呼吸した。やりすぎないように、頭に血が上っていないことを確かめる。
セイフティを確かめるように。
個室に入った。鍵はかけずに足で扉を押さえる。それから足音を数えた。あと少し。
6歩、5歩。
男は焦ってはいない。獲物はもう網にかかっているからだ。
4歩、3歩、2歩。
しかもその獲物は自分から網にかかった。
1歩。
ドアが開いた。
僕は動く。
覗き込んだ頭に、真横からベレッタを突きつけた。
男は何が起きているか理解していないようだった。まだにやにやと笑いを浮かべている。
頭に銃口をつきつけたまま、セイフティを解除した。その音で男はやっと我に返ったようだった。
「暴れるな」
それから左手でもう一つベレッタを生み出す。僕にとってはただのデモンストレーション。
だがおそらく男はそれを見るのは初めてだっただろう。
そこに至ってようやく男は自分が手を出した相手が何なのか気が付いた。一気に血の気が引くのがわかった。
「暴れたら、わかるよな?」
バン、と言うと男はわかりやすくびくっとなった。
「お前、初めてじゃないよな、こういうことするの」
男が頷く。
「二度とするな。僕にじゃない、ここでそういうことを一切やめろ」
こくこく、と頷く。
「わかったか?」
こく、と頷きかけた瞬間だった。どすっと鈍い音がして、男の体ががくりと折れた。
まだ何もしてないのに、と思った。
待ち人がようやく来たことに気が付いた。


「お前、こんなとこで何してんの?」
彼がドアに腕をかけて個室を覗き込んで、言った。
「……何って、あなたを待ってたんじゃないですか」
へえ、と言って彼が男を踏みつける。横から思い切り脇腹を蹴られたらしい。床にうずくまり、黄色い液体を吐き出している。
「なあ、お前コイツに何された?」
九子菜さんが僕に言う。ほとんど楽しげに。
「……何もされてませんよ」
「嘘つくな。その手のそれは何だ」
「……鈍器のようなもの、です」
本当だ。撃つ気は毛頭なかった。こんな奴にやる銃弾がもったいない。必要ならこれで思い切り殴る気だった。
代わりに脇腹に蹴りが入ったわけだが、男にとってはそちらの方が不運だったかもしれない。
九子菜さんが男の襟首を掴み、思い切り引き上げた。げえっと嗚咽の音がした。
「なあ、お前、コイツに何してくれたか知らねえけど」
それからもう一度顔に酷い一撃を見舞う。あ、鼻つぶれた……。
「来たのが俺でよかったな。もう一人だったら、お前もう死んでるぞ」
九子菜さんはほとんど意識がなさそうな男の、スーツのポケットを探った。財布を取り出し、身分証を見つけた。
ふーん、と言って名前を見ている。僕はそれを見なかった。見ても何の意味も無い。
「なあ、名前覚えたからな。今すぐ警察呼んでやるけど、俺らのこと喋ったら、」
そして免許証を引きちぎった。それを無造作にトイレに流す。
「こうなる」
薄れていく意識の中で、男は必死に頷こうとしたようだった。
もう一発九子菜さんが蹴りを入れ、ぎゃっという悲鳴がして完全に男はブラックアウトした。そこまでしなくても。
「おら、お前もその物騒なの仕舞え。帰るぞ」
はい、と僕は返事をする。
多分尻尾があったら全力で振っているだろう。我ながらわかりやすい。
「帰ったら何されたか全部言えよ。ったく、迂闊に外出せねえ、お前」
「そ、そんなことないですよ!」
「あるっつーの。マジふざけんな」
「ふざけてないのに……」
怒られてしょんぼりする。僕なりに、がんばったんだけど。
「おい、帰る……」
言いかけた九子菜さんを僕は捕まえた。
ちょっと待って。
ちょっとだけでいいから。
九子菜さんのコートを掴んで、僕は自分が少し震えていることに気づく。
全然怖くなんかない。
ないのに。
安心したら怖くなった。暴力からじゃない怖さって、本当にあるんだ。
僕は抵抗できた(と思う)けど、そうじゃなかったら、どうしてただろう。
本当に気持ちが悪かった。吐きそうだった。
それを少しだけ九子菜さんに中和して欲しかった。
僕の我侭はすぐに通じてしまって、九子菜さんはちょっとだけ僕にキスして、それから「大丈夫だ」って言った。
だから僕は、ようやく肩の力が抜けた。
振り向いて、床にみっともなく伸びている中年男を見た。
僕たちなんかよりよっぽど危ないと僕は思う。ふとあの目をどこで見たのか思い出した。
どこで、じゃない。いつも。どこででも。
溢れるような意志とか、決意とか。立ち居振る舞いとか。そういうものをいつも見ていると、忘れてしまう。
きっと銃使いになる前の僕もそういう目をすることはあっただろうし、濁ったところにいると、濁っていることがわからなくなる。
きっとどこにでもありふれたものなんだ。無意識という名の悪意。
だから、九子菜さんが来てくれてよかった。僕がその悪意を返す前に、全部散らしてくれた。
「ねえ、あれほんとですか?」
「ん?」
「もう一人が来てたらって……」
「ああ、当たり前だろ。容赦なんて欠片もしねえよあいつは。犯されてみるかくらい言うんじゃねえの」
「……、」
冗談でもやめてほしい。本当に。
何事もなかったことを、僕は本当に感謝した。
「しかしお前が銃出したから、場所もなんとなくわかったけど」
九子菜さんが言う。
「お前、これから一人で出歩くのしばらく禁止。いいな」
「ええっ」
そんな。僕は悪くないのに!
「俺か塁我がいないと駄目だ。わかったか?」
素直に承服するには悔しいから、僕は頷かなかった。だって、そんなんじゃ生きていけない。
トラップはどこにでもあるんだ。
僕は女の子じゃないから、傷はつかない。
そう言ったら、九子菜さんに手を捕まれた。
「お前、塁我にも同じこと言えるか?」
震えた手を隠して、九鬼さんの前で、同じことが言えるのかと問われた。
僕は首を振る。
九鬼さんには言わないで。そう言うことが甘えなのだともわかっている。
「……本当に、俺でよかったな」
九子菜さんがにやりと笑ったから、僕は頷く。
「まああんなもんで済ませるほど俺も甘くねえけど」
「え?」
九子菜さんの手には見慣れない携帯。
「ま、ちょっと見ただけで相当数画像入ってる。警察に提出したらかなりいい証拠になると思うけど」
いつの間に。
まあ、担保だな、と言って九子菜さんはそれをポケットに入れる。
「言っとくが、これはお前に対する担保でもあるんだぞ」
「え?」
「本当に一人で歩かせられないようなことになったら困る。いいか、これをあいつに見られたら、お前多分本気で外出禁止喰らうからな。よく覚えとけよ」
理不尽なのは、黙っていて欲しい僕も同じで。だから頷いた。
それから、もっと強くなりたいと思った。
単純な意味じゃなくて。この人たちみたいに毅然と。一人でちゃんとそこに立っていられるくらいに。
思えば僕は同じことをずっと考えている。
僕はまだ子供で、庇護される側なのだということを、否応なく思い知らされる。
それが悔しい。
いつか大人になれる日がくるんだろうか?
いくつもの罠をかいくぐって、深い森を抜けた先に。
眩しく光るその場所へ。

自分の足で。




 














END




20111106